以前、仕事でショッピングセンターのミニコミ誌を作っていたことがある。このとき、読者モデルとして7歳の男の子を使った。ちょっとアイビー風な服を着せて、ヘアメイクさんに髪を整えてもらい、七三分けにしてちょっと大人っぽくアレンジしたら……、ものすごくかっこよくなっちゃったんである。線が細くて、利発そうな髪型と目つき。そこらの公園では見ることのできない魔性の子どもっぷりである。進行役の私がなんだかひとりメロメロに。漫画にはよく、「とてもクールな子ども」というのが登場するけれど、まるであんな感じ。

で、その「クールな子ども」の代表格とも言えるのが『ポーの一族』のエドガーだ。この漫画は萩尾望都の出世作で、1970年代初期、少女漫画黎明期の一大傑作といえる。萩尾望都は、私の大好きな作家のひとり。漫画がひとつの文化として成り上がっていき、漫画家の多くは求められるクオリティの高さや時代の潮流に乗ることができずに第一線から脱落していく中で、萩尾望都は現在に至るまで質の高い作品を提供している数少ない漫画家である。『半神』『スター・レッド』『残酷な神が支配する』など、紹介したい作品は山ほどあるが、まずはやはり『ポーの一族』からでしょう。

不老不死のバンパイアであるポーの一族。通常、子どもは一族に加えない決まりなのだが、14歳のとき、エドガーは意に沿わぬながらもバンパイアにさせられてしまう。この漫画は成長もせず、老いることもなくただ時の流れの中で生き続けなければいけない、とてもアンニュイなエドガーの物語だ。

大人になって読み返してびっくりした。通常、漫画のお話は時系列だが、『ポーの一族』は、各話ごとに少々時代が異なる。長い年月を少年の姿のままで生き続けるエドガー(とメリーベル、アラン)の正体に気づいた人々が、少しずつ情報を仕入れて彼らの形をとらえようとしていくのだが、各話が時系列に並んでいないことにより、読者は登場人物と同じように、情報の破片を並べながらエドガーの足跡を追っていく形になっている。表現の方法は、まだまだ漫画黎明期だけあってドラマチックではないけれど、あの時代にこのクオリティの漫画を作ったということに驚かされる。

びっくりしたのは私だけではないらしく、『パタリロ!』でも『ポーの一族』のパロディがよく使われているし(クック・ロビン音頭とかも元ネタはポーだ)、小川彌生の『わたしのせんせい』でも、拾ってきた猫に「メリーベル」と名付けたりして悪のりしている。ちなみにメリーベルは、「吸血鬼だけど貧血っ娘」なのがロリ萌えなんだとか……。

人間になりたいアンニュイなロボットと同じように、永遠に生き続けなければならないアンニュイなバンパイアというのもまた、よく用いられる意匠である。これがまたヲトメ萌えなんである。不健康な顔色をした美少年やら美少女……こうしたヲトメ萌えを地でいって作った映画が『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』かな。激しく減量して線の細くなったトム・クルーズ、アムロみたいにいつもウジウジ悩んでいるブラッド・ピット、成長しない少女キルスティン・ダンスト。おまけにコスチュームも優雅で、私のベストムービーのうちのひとつだ。ヲトメ心のツボをつかれまくったらしい。

永遠に生きること=孤独な魂=アンニュイ、というのは非常に女心をそそるのである。「孤独な心は、私が埋めてあげる!」という母性本能というか、「そうしたら私に夢中になって、浮気とかしないでしょ?」という達成感みたいなものが湧くためだ。男性キャラにおいて「孤独」というのはモテの大きなファクターである(『日出処の天子』の厩戸とかな)。

『ポーの一族』には、明らかなヲトメ萌えはないけれども、ところどころにスパイスが散りばめられている。たとえば、エドガーとメリーベル、エドガーとアラン、エドガーとアランに育てられた子どもたちなどだ。その辺の萌え解説を、次回にさせていただきましょう。
<つづく>