男の作る歌には「ごめんなさいソング」という種類のものがある。ボン・ジョヴィの「I'll be there for you」などその代表格で、「今までほったらかしてごめんなさい、もうしないから、ずっとそばにいるから許してチョウダイ」と泣きわめく歌である。君のためなら太陽だって盗んじゃうし、のどが渇いたら水になるし、ワインにもなるよ、などと大きなことを言って謝っている。また、山崎まさよしの「One more time, One more chance」も、タイトルからしてごめんなさいムードが漂っている。ここでも「チャンスがあるなら新しい自分を見せたい」などと言っており、これもごめんなさいソングである。
どうやら男は、のん気に女と付き合っていて、いざ振られてみたときに自分の身勝手に気がついて、ごめんなさい、もうしませんとダラダラ尾を引くものらしい。引き替え女は、付き合っている間にグダグダ悩み、別れた後に「ああすればよかった」と後悔することはない。これも『あさきゆめみし』を読むと、よくわかる構図である。
紫の上は、源氏に育てられ、そのまま妻になった女性だ。美しい少女を拾ってきて、自分好みに育てて妻にする……最高の男萌えじゃないだろうか。気品、容姿、才覚、どれを取っても当代一、源氏の一の人と言われる紫の上。
その紫の上が、幼いころにお兄様と慕っていた源氏。彼はある夜、突然変身して、オオカミのように襲ってくる。紫の上の驚きは想像に難くない。ああいやらしい。そんな下心を許してやったと思えば、源氏と朧月夜との浮気が発覚。源氏が須磨に蟄居するとか言うから泣く泣く別れたのに、自分はさっさと女を作って豊かな蟄居ライフを送っている。戻ってきた後、いい加減年を取って、女遊びも止んだかと思えば、懲りもせず「藤壺の宮の縁続き」と聞いて、うら若いバカ女三の宮を嫁にもらってくるロリコンぶりだ。オマケに自分はどうやら、誰か(藤壺)の身代わりらしいということまでわかってしまう。勘弁してくれよ、という感じだ。
そうして失意の中、紫の上が亡くなると、源氏は狂ったように後悔を始める。「なんで女三の宮なんかもらっちゃったんだろう、あさがおの君に言い寄ったりしたんだろう、藤壺が一番なんて思ったんだろう……」。バカかお前は。すばらしい女性だったからーだの、上皇に願われたら断れないからーだの、くだらない言い訳をして、さんざん好き勝手やっておいて、それら浮気が紫の上をどれだけ傷つけるかくらい、わかっていたはずだ。彼女を愛しているのなら、なぜ生きているうちにこそ大切にしないのだ。
おかげで紫の上は、娘の明石の君に「私のように、殿にすがるだけのつまらない女になってはダメ」と言い、「生まれ変わっても、私は今の人生を望むのだろうか、それとも別の人生を望むのだろうか」と逡巡して死んでいく。愛し愛されることは至上の幸福だけれど、男がもたらす苦しみは、それを上回るのかもしれないというのだ。
その答えは出さないままになっており、読み手の判断にゆだねられているようだが、これは浮気者の源氏が相手故の悩みではない。「ごめんなさいソング」が歌われている現代でも男と一緒になったら、苦しみはついて回るというメッセージに思えてならない。
そう、基本的に、恋愛に関してポジティブ思考が多いのは男のほうだと思う。それを象徴するのが、藤壺と源氏のやりとりだ。継母である藤壺に、源氏は恋心を抱き、ある日思いを遂げてしまう。源氏が藤壺のところへ忍んでいくシーンは、夕霧と雲居の雁結実シーンと並ぶ萌え現場である。切ない気持ちでいっぱいになっている源氏だが、実は藤壺も源氏に心を寄せており、二人は報われぬ仲ながら両思いなのだ。そして藤壺の懐妊。源氏はそれを「二人の縁の深さ、神仏が許したもうた証だ」と言うが、藤壺は「私たちの罪に下された罰」と言う。男女の考え方を象徴するようなセリフじゃないか。不義の子ができてのん気に喜んでいる源氏には、やはり女としては同感はできないんだよな。
最後に、源氏の年上の恋人、六条の御息所(ものすごい年上かと思っていたら、たった8歳上なのな)。源氏の女たちへの嫉妬から生き霊になって、葵の上、夕顔を呪い殺し、死んでもなお紫の上や女三の宮にとりついて、源氏の不幸に荷担する。いいぞ、御息所。誰だって、もてあそばれた上に疎まれたら、悲しく辛い。思い知らせてやりたいと思うだろう。御息所は、女をないがしろにすると怖いぞと、千年にわたって男への警告を発しているようである。
<『あさきゆめみし』編 FIN>