大学での筆者の卒業論文は、頭の悪そうなことに「少女漫画の女性像について社会学的に切る」というテーマで提出。それ以来、少年漫画に出てくる女性像も気になるようになった。例えば、『北斗の拳』のユリア。あれ、なんであんなにモテモテなのでしょう。男は謎の多い女が好きだから、実は南斗の大将だったユリアにその謎な部分を感じていたとか?

そして正真正銘、少女漫画である『日出処の天子』にも、これまたつまらん女が出てくる。布都姫だ。もう少しでうまくくっつきそうだった蘇我毛人と厩戸だが、この女のおかげで毛人が心変わり。少女漫画で、最もやってはいけない「違う女に乗り換えた」を毛人はやらかしたのだ(うん……ま、男から女に、なんだけど……)。このカップル、おそらく読者の総スカンを食らったことだろう。

布都姫が魅力的な女なら、まだしも読者は納得しただろうが、これまたどこがいいんだかよくわからない女なのだ。「あんな、何の力もない女のどこがいいのだ!」と厩戸は泣いて走り去るシーンがあるが、うむ、ごもっとも。

少女漫画には、必須といわれる条件が2つある。恋愛要素と登場人物の成長だ。恋愛要素のまったくない話というのは、少女漫画にほぼないと言ってよく(『動物のお医者さん』は恋愛の絡まない、かつ人気の出た希有な作品である)、しかもストーリーが終わるころには、登場人物は何かしらを学んだり体験したりして、立派になっていなければならない。そのため少女漫画の主人公は、決して大衆に負けず正義を通したり、下駄履いて歩きそうな反骨精神に満ちた女がやたらと多いのだ。ちなみに少年漫画の条件は、物理的な(明確な)目的だそうだ。7つの球を集める、試合に勝つ、じっちゃんの名にかけて謎を解くなどである。

しかし布都姫には、まったく、うん、まったく、自らの力で物事を乗り越えて道を造っていこうという気概が見られない。幼いころ、両親から引き離されて斉宮にさせられ、神に嫁いだ身だからと両親の死も知らされず、一人修行に励み、物部が滅べば物乞い同然になって親族の厄介者となり、好きな男ができてみれば和製ロミジュリなのか敵方の男(毛人)で、還俗させられたかと思えば、ちょっぴりエロくて気持ちの悪い天皇に嫁がされ……と、そぼ降る雨のように不幸がやってくるのだが、読者はそれを読んでも「だからどーした」としか思わない。天皇に嫁ぐ前に、毛人と逢い引きしてやっちゃえなどというとんでもない計画も、発起人は付き添いのばばあだ。布都姫は単に手紙を書いてブルブル泣いてただけ。

不幸ならそれを打ち砕けばいい。不幸の煮込みみたいな『砂の城』のナタリーだって、『ベルサイユのばら』のオスカル様だって、婚約者がロシア人とくっついちゃった『はいからさんが通る』の紅緒だって、みんなたくましく障害や自分と戦っていたのだ。ま、そうじゃなければ「ナタリーにはまたも不幸がやってきました、ちゃんちゃん」で終わってしまい、お話にもならないわけだけど。戦わない女は、どうなったって仕方がないのだ。

『日出処の天子』文庫本のあとがきインタビューで、作者本人が「恋愛に興味がなかったころに描いたので、布都姫に魅力がない」というようなことを言っている。布都姫は、自他共に認める少女漫画のヒロイン不適格者なのだ。

だけど、ひとつ思うことがある。この女、少年漫画だったら十分ヒロインでとおったはずだ。不幸に負けない強い心(キモい男にも尽くす忍耐力)、はかなげな姿、神秘的とも言える美しさ、清純さ。今にもマッチョな男たちの登場する劇画漫画に出てきそうだ。どうっすか布都姫をどこかの劇画に出されては。
<『日出処の天子』編 FIN>