先日、とある会社員の方に取材をしているとき、記事内容に関して彼はこう言った。「何かあったら、僕がすべて責任を取りますよ」と。編集長と筆者のふたり、口から茶が出るかと思った。後でふたりでしきりに、「かっこいいねー」「かっこいいねえ」とまじないのように唱えてしまった。

こういうのを女は「男らしい」と思う。頼れる、責任感がある、懐がでかい。嫁にしてくれ。そう、背が高い、物知り、運動ができる、という、いわゆる「カッコイイ象徴」は、要は「頼れる」を具象化しただけの話なのだ。自分より背が高ければ、天井の電球の付け替えが楽そうで頼れる、物知りだったら辞書代わりにできて、聞けば答えてくれて頼れる、運動ができれば、車にひかれそうになったら飛んで助けてくれそうで頼れる、という感じ。

学生のころの同期に、非常にイチモツがでかいという男子がいた。でも彼女がいないので「宝の持ち腐れ」などと言われていた。背が高かったり、物知りだったり、運動ができても、それを女が望む方向に使ってくれなければ、まさしくそれも宝の持ち腐れなのである。

一方で「女が思う、男が"男らしい"と思うキャラ」(あくまで女が思う、だよ)というのは、まさにパイ・ヤンみたいなのかな、と思う。

パイ・ヤンは、ホントすぐ怒る。「なぜ早く言わないのだ!」「さっさとしろ!」。パイ・ヤンは戦士なので、図体がでかい。こんなのにガミガミやられたら、心臓が縮んで仕方がなさそうだ。ケンシロウが、ところかまわずいきなり「アタタタタ!」とか叫び出すのと同じ感じ。「ひッ」てなるだろうな。

で、相手の態度が気に入らないと、よく「私を誰だと思っているのだ」とか言う。うわー、いそう、そういう人。面倒くさ~。しらねーよ! と、こんなイヤなヤツなんだけど、唯一の救いは、女に一途なことだ。嫁のジョゼに、何年も会ってもいないのに勝手に夢想して夢中になっている。

パイ・ヤンは、戦場にジョゼを連れて行くなんて危険なことはできないと思い、ひとり戦場へ向かった。自分の母親は、やはり戦士だった父に連れ添い、戦場で矢に打たれ、足に怪我をした。そんな危険な目には、愛するジョゼには遭わせたくなかった。だから、安全な村にジョゼと息子のリオを置いて、必死に戦ってきたという。それで、ジョゼやリオには「捨てられた」などと勘違いをされて、なんてかわいそうなパイ・ヤン。

なーんてな。パイ・ヤンの母は、自ら進んで父と共に戦場に身を置いたのだそうだ。戦いから疲れて帰ってきた父を、自分こそが癒してあげたかったのだと。母は、こう言う。「あなたは、ジョゼと話し合ったの?」と。勝手に「こうした方がいい」と決めて、押しつけたのではないの? と。

夫婦ふたりのことは、ふたりできちんと話し合うべきなのだ。「私は、お前に危険な戦場にいてほしくないと思う。理由は、私の母が矢傷を負って、今でも冷えると痛むと言っている。そんな危険な目に遭わせたくないのだ」それでジョゼが「あー、あたしもそんなキタナイ場所はゴメンだから、待ってるわ」と言うか、「一緒に行かせて」と言うか、それはわからん。だけど、そういう話し合いがたくさんなされていたら、手紙屋に騙されることも、またジョゼのほうで手紙が来ないことを邪推されることもなかったはずなのだ。なんとふたりの関係は、いろんなことに目をつぶって、心の交流を持たない現代の男女の象徴ではないか。

ファンタジーは、正直、ものすごくいっぱい読んでるわけじゃないけど、なかなかいいなと思う。なぜなら、パイ・ヤンとジョゼのすれ違いを、現代の設定でそのままやったら、重たくて仕方がないからだ。だけど、猫mixなんてのを連れて、おかしな魚のおっさんが魚を調理しているところで、真剣に悩んだところで、なんかコミカルだ。人間という愚かな生き物を批判するのに、違う動物や異星人を使うのも、とっても便利だろうな。

というわけで『猫mix幻奇譚』、犬はかっこいいけど、男はダメだ、みたいな話になっちゃいましたが、これにてドロン。
<『猫mix幻奇譚』編 FIN>