最近、テニス誌で執筆をしている関係などから、日本のトッププロと交流がある。低迷しているとはいえ、日本のトップは世界100位~300位くらい。3ケタかと思うと大したことなさそうだけど、世界の100位って、よく考えたらすごいことだよな。
プロの選手になるような人たちは、子どものころから大会に出場し、タイトルを競い合っている。ジュニアの戦歴を調べてみると、驚いたことに、小学校、中学校でトップだった選手でも、現在名前を見かけない選手が多くいる。トップのプロというのが、どれだけの壁を乗り越えてきた人かというのが想像される。
彼らと話をしていて感じるのは、「自分のステージがハッキリわかっていること」だ。一般人の私たちとはまったく別世界なのだな。彼らの多くは、テニスという決められたステージで自分を表現し、地位を作ることを目指している。一方で一般人の私たちは、仕事を始めて数年は、自分のステージをどこに置いたらよいのかわからない場合が多い。まずは「自分探し」からなのだ。これが意外と大変。
『リアル・クローズ』の主人公は、百貨店に勤める絹恵。地味で、垢抜けなくて、仕事を地道にこなす努力家。寝具売り場のベテランであったが、婦人服の部門に配置換えになり、話が急展開する。例えば出版界でいうと、美容・ファッションの雑誌や書籍というのは、一流が揃う場所だ。やはり一流の仕事場って、気が抜けなくていい。『プラダを着た悪魔』や『アグリー・ベティ』が、ファッション業界のお話であるのは、女性が遺憾なく仕事に注力できる、一流の場所であるからかなと想像する。
絹恵は婦人服売り場に行くなり、ブス、デブ、ダサイと方々から指摘される。しかし、絹恵は言う。「人間は見た目がすべてではないと思います!」。これ、正しいと思いますか? それとも間違っていると思いますか?
絹恵の上司となるカリスマバイヤー田淵優作は、こう言う。「中身があやふやな人間に限ってそう言う。見た目も含めて自分だと受け入れられない人間は未熟でしょう」と。
人は、あらゆる手段を使って、自分をアピールするものだ。話し方、話す内容、肩書き、そして見た目。なにも無闇に華美に着飾れと言っているのではない。ブランドものでも流行ものでも、自分のそばに置くアイテムのどこに「自分の意志」が見えるかが大事なのだ。
高いブランドを身につければ、自分の価値が上がるというわけではない。自分の価値に見合ったアイテムで、自分をどう表現するか。ユニクロでも無印でも、それを選ぶ理由に自分らしさがあればいい。そうしたアイテムで、何を表現したいのか。意味もなくブランドものを身にまとうことほど、恥ずかしいことはないのだ。豪華なブランドものに身を包む美姫様が美しいのは、彼女がその値段やブランドバリューに負けない意志と実績を持っているからだ。
つまり「人間は見た目がすべてではない」というのは、言い訳なのである。努力をしている人間というのは、すべてに手を抜かないものだ。絹恵は一流の人たちに囲まれて、だんだんと「自分」を客観視できるようになり、自分の外見をも手を抜かずに磨くようになっていく。そうして起こるのが結婚問題だ。
絹恵には、大学時代から付き合っている男がいる。仕事のストレスを優しくほぐしてくれ、「絹恵のやりたいようにやればいい」と応援してくれる最高の彼氏だ。しかし2人には破局がやってくる。その原因はなんだったのか。ここら辺は、女としてはとても身に迫るものがある。女と付き合う気があるなら、男性もぜひ考えてほしいことだ。そんな話を次回。
<つづく>