その昔、「漫画を読むとバカになる」と言われていた。漫画よりもアニメはもっといけないらしく、悪者だった。その理由を、遠い昔に友人から伝え聞いたことがある。「例えば、小説で『レ・ミゼラブル』を読んだ人の頭の中には、様々なジャン・バルジャンがイメージされている。しかし漫画となると、ジャン・バルジャンの顔は、その漫画のキャラクターとなる。しかしまだ、声や動きは、読者の想像の範疇だ。だがアニメになると、声までもが視聴者全員に共通のイメージとなる」。だからアニメが一番いけないんだと。

当時は、わかるようなわからないような、と思っていたが、要は「想像力」が養われない媒体は、いけないということなのだろう。想像力というのは、生きるうえで不可欠であり、様々な場所で発揮されるからだ。人を殺したらどうなるのか、相手が今何を考えているか、どうしたら課題を乗り越えられるか、日常、行うすべてのことには、想像力が必要なのだ。KYというのは、想像力欠如のひとつの症例である。

漫画がいけないと言われることに、「ステレオタイプなイメージの提供しかしていないこと」があるだろう。髪のストレートな女は清楚で、クルクルしてれば活発または遊び人。そして、さわやかで、優しげで、品位がある好青年がやってるスポーツは、必ずテニスである。ええ、ほんとにもう、涙が出てくるくらい。

BLACK BIRD』で、序盤に主人公に告白する学校の人気者もテニス部で、かくのはシトラスの汗だ。『サード・ガール』の主人公が付き合うのも、全員テニス部の男子。そして『ママレード・ボーイ』の遊がやっているのも、やはりさやわかにテニスなのである。

遊のさわやかさっぷりはもう尋常じゃなくて、テニスも上手ければ勉強もできるらしく、大学は京都へ進学している。女子たちは本当に京都で勉強する男が好きなのだな。テニス部→京都進学というラインは、『サード・ガール』とまるで同じである。

そして、恋愛につきものなのは「別れ」であるわけだが、まずやってくるのは、茗子の失恋である。茗子は、自分の高校の教師と付き合っているのだが、それがバレて別れることになる。しかし、図書館でチューチューやってりゃ、そのうちバレるだろう。もう少し気をつけてほしいものだが。

そして次にやってくる失恋は、遊と光希だ。なんとこの2人に、異母兄弟疑惑が浮上するのである。強烈に惹かれあった男女が、「実は兄妹だった!」とか「兄妹かも!」という話は、少女漫画の県道くらいままある話で、それがめいっぱい劇的になっちゃったのが、一条ゆかりの『デザイナー』である。『ママレード・ボーイ』では、モテモテの遊と光希にそれぞれライバルが登場してヤキモキして、彼らが去っていった後に起こるのが、この疑惑であった。それを理由に、遊は光希に別れを言い出す。

いつも思うんだけど、どうしてこういうとき、漫画の登場人物って、はっきり相手に理由を言わないんだろう。訳がわからず「別れよう」とか言われるほうがショックが大きいと思うけどなあ。「こうこうこういう理由で、僕たちは兄妹かもしれないから、控えたほうが無難かも」と言えば、スッキリ別れられたのに。……もしかして、私の過去別れた男たちも、実は兄妹ということが発覚して、身を引いてくれたのかもなあ。まあ、最近の漫画事情では、血がつながっていようが、別にお構いなしにさかってよいようなので、今後、こうした疑惑が障害になる話があるかが見所である。

話は少し戻るけれど、茗子と光希のどちらの失恋も、「嫌いになって別れるわけじゃない」というのがまた少女漫画風だ。茗子の失恋も、彼女が高校を卒業すれば障害はなくなる。疑惑も、なくなってみればまた2人は元どおりだ。いいね、ホントに少女漫画って夢があってさ。
<『ママレード・ボーイ』編 FIN>