ここ数年、邦画ブームだと思う。飯田橋にある名画座「ギンレイホール」が、「邦画をもっと活性化させたい」と力を入れていた時期があったが、見事に功を奏したようだ。

邦画と言えば一時は、アイドル映画かアニメか寅さんか、みたいな時期もあったように思う。アイドル映画では、漫画が原作のものもあったし、少々頭の弱い少女向けに作られたストーリーのものもあった。しかしすべてのアイドル映画に共通なのは、「どんな原作でも、必ずしょっぱくなってる」ことではないか。

シブがき隊の『ボーイズ&ガールズ』など、しょっぱい不思議な映画ナンバーワンのようだ。見たいなあ。……しかしこの映画、子どものころに見たときには、なんとも思わなかった。何故か。それは、自分の欲求が満たされているからだ。話がどんなにチンケでも、"かっこいいシブがき隊"が見られればそれで満足、という人間には文句が出ないのだ。

こういう習性は大人になっても変わらないようだ。私はコスチュームものの映画を見ると、非常に点が甘くなる。『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』や『風と共に去りぬ』『スリーピー・ホロウ』など、おもしろかったと言いながら、実はその理由は衣装なんじゃないかと思うくらいだ。『マリー・アントワネット』も、なんで主役があんな顔なんだろうとは思っても、衣装のおかげか別段文句はなかった。

まあ簡単に言えば、「ツボ」さえ押さえとけば、大抵のことは皆さん目をつぶってくれるということだ。そのひとつが『銀の鬼』ではないか。子どものころ、「この漫画家キライ」などと言いながら、『銀の鬼』を楽しく読んでしまった自分がどうしても悔しかった。キライな理由は、絵柄が好みじゃなかったからであるが、楽しく読んでしまった理由は間違いなく、ツボを突かれたからだ。

では『銀の鬼』には、どんなツボがあるのか? まずでっかいテーマである「鬼が主人公に惚れてつけ回す」である。悪者が聖女チックな女を追いかけるというのは、ヒットが出ない漫画雑誌の編集が、定期的に新人漫画家に描かせるお題のひとつだろう、きっと。『悪魔の花嫁』がまずそうだ。デイモスは実は結構いいヤツだが、一応設定は悪魔なので、美奈子は都合の悪いときに限ってデイモスを拒絶する(で、困ったときには、のび太のようにデイモスを呼ぶ、結構イヤな女である)。

王家の紋章』でも古代エジプトのファラオ、メンフィスは、ひどい暴君であった。しかし愛する金髪娘キャロルによって、だんだんと大人しくなっていく。……ところで、最近の調査から、古代エジプトの巨大建造物は、民に労働を与える公共事業だったということが判明していているが、漫画ではバッチリ奴隷がピラミッドを造っている。建築現場を目の当たりにしたキャロルは「教科書で習ったとおり!」とか言って喜んでいるが、そんな教科書、未だにあったら墨塗り確定じゃないか……長期連載ってのも大変だな。

そして『銀の鬼』だ。人間を食らう、わるーいわるーい鬼の十年(とね)に惚れられた、女子高生ふぶき。彼女は、どんなに十年に言い寄られても決して彼を許さず、突っぱねる。「鬼なんて、悪い生き物に心を許したりしないわ!」ということらしい。

ほんっとーにこういう話は、少女漫画によくあるけどさ! 見かけが割と好みで、自分のことを一途に好きだという男がいたら、100発100中落ちるだろ女は。多少のダメなところなんか、すだれがかかって見えなくなるものなのだ。それが恋愛のシステムというものである。しかし、そこをはねのけて初めて、主人公の資格が得られるのだ。一方でマッハでこれらの男に落ちてしまったのが『だめんず・ウォ~カ~』である。つまり、悪い男に簡単に落ちてしまったら、現実の痛い話になっちゃうから、少女漫画の主人公たちは、どんなに好みの男に言い寄られても、正義(?)を貫くのである。
<つづく>