スタジオジブリのアニメーション映画『千と千尋の神隠し』が公開されて早15年。八百万の神々が訪れる湯屋の佇(たたず)まいは、山形の銀山温泉に似ているとか、群馬・四万温泉の「積善館」だ、宮城の鎌先温泉ではないか、「油屋」の屋号をもつあの宿だ、などと話題になり、いまなお、温泉地を訪れる人の興味を誘っています。さて、どこが本当のモデルなんでしょうか。

赤い橋を渡った先に「積善館」本館の玄関がある。アニメのあのシーンが重なって見えてきそう

結論を言ってしまうと、実際にスタジオジブリが制作にあたって参考にしたと公表しているのは、「江戸東京たてもの園」(東京都小金井市桜町)の子宝湯(昭和4年<1929>建築の銭湯で現在は展示のみ)と、「道後温泉本館」(愛媛県松山市道後湯之町)のみ。温泉地や宿は特定のモデルがあるわけではなく、複数の温泉を参考にした、というのが実情のようです。今回はモデルとなったといわれる施設・宿をいくつかご紹介します。

道後温泉のシンボル - 道後温泉本館

日本最古の温泉といわれる道後温泉の歴史を紐解くと、「足に傷を負い苦しんでいた一羽の白鷺が、岩間から噴出する温泉に足を浸して傷を癒した」というのが始まり。「道後温泉本館」は明治27年(1894)に改築された木造三層楼の建物で、公衆浴場として初めて国の重要文化財に指定されました。まさに道後のシンボルともいえる堂々たる佇まいで、玄関の唐破風屋根のつくりなどが『千と千尋の神隠し』の油屋を彷彿させます。

唐破風の玄関が荘厳な趣きをまとった「道後温泉本館」

2003年1月に記されたスタジオジブリのブログを見てみると、宮崎駿監督に直接質問したことがあるそうです。監督の答えは、いろいろな温泉が入っていて特定のモデルはないものの、道後温泉は確かに入っているとのこと。絵コンテ集の中に河の神様が出て行く大戸に「導後」の文字がはっきり描かれていることからも、道後温泉がイメージされます。

「神の湯」の浴室(男湯)。泉質は無色透明で肌にやさしいアルカリ性単純温泉

ちなみに、道後温泉本館は2017年秋以降に耐震補強工事を行います。閉館して工事をしても最低で5年、工期が延びれば7~9年にもなるとか。工事期間に突入してしまうと入ることができなくなってしまうので、早めに訪れておくことをオススメします。日帰り入浴もでき、大人410円、子ども160円(神の湯階下)~です。

赤い橋が湯宿へと誘う - 積善館

「油屋」の建物に到着するシーンさながら、赤い橋のむこうに木造のレトロな建物が佇む「積善館」(群馬県吾妻郡中之条町)。創業は元禄7年(1694)で、フロント周りの大黒柱などは創業当時のままいまも宿泊客を出迎えてくれます。

「積善館」内の幻想的な雰囲気のトンネルが、アニメの世界を想起させてくれます

映画公開後に宮崎監督はこちらに宿泊しているようですが、「本館のトンネルや『元禄の湯』の建物の2・3階部分がアニメに描かれているものと似ていることから、もしかしたら映画の制作前に来たかもしれません。このような話を館主が独自に解読して、お客さまにお話ししています」(広報担当者)とのこと。

アーチ型の窓がモダンな「元禄の湯」は昭和5年(1930)築

こちらも日帰り入浴ができ、ひとり1,200円(大広間の休憩もセット)。なお、平日のみ先着15人の宿泊者を対象に、「アニメツアー」(要予約、50~60分)も無料で行っているので、宿泊される人はお見逃しなく。

「文化財巡り」が人気 - 金具屋

最後に紹介するのは渋温泉の「金具屋」(長野県下高井郡山ノ内町)。「あの映画の上映後、木造の旅館が見直される大きなきっかけになったと思うんです」と、9代目若旦那も言う。宿泊客からの反響が大きくて、スタジオジブリにお礼のメールを送ったりもしたそうです。

木造4階建ての「斉月楼」。夜にはライトアップされ、記念撮影に訪れる観光客の姿も見受けられます

木造4階建ての「斉月楼」は国の登録有形文化財。宮崎監督は映画の公開前後とも宿泊されたことはないものの、映画公開後に宿泊客から「この宿がモデルではないか」と多くの声が寄せられたといいます。

この宿の意匠をこらした建築は、昭和初期に6代目が宮大工を連れ、日本全国の寺社や城、遊郭などさまざまな建築物を見て、その建築様式を旅館に取り入れたもの。ベンガラ塗りの壁や花頭窓(かとうまど)、水車の廃材を廊下や階段に組み込むなど、華やかで独特な空間を生み出しています。

2003年からスタートした「文化財巡り」は、館内の見どころを紹介する宿泊者向けのツアーで多くの人が参加しています。筆者が以前宿泊した時にも30人以上の宿泊客が参加し、興味を持って館内を巡っていました。文化財の宿にはこういった館内ツアーを行っているところが多く、人気を博しています。こちらには日帰り入浴はなく、宿泊者のみが入浴できます。

古代ローマ調のステンドグラスが素敵な「浪漫風呂」。お湯は館内唯一のにごり湯で、しっとりとやわらかな肌触り

郷愁を誘う木造建築ですが、その昔、日本ではごく当たり前の風景でした。日本の経済発展につれて街並みは変わり、温泉地でも同様に、高度成長の波にのって温かみのある木造建築が大型の鉄筋コンクリートの建物にとって代わっていきました。

一度失われてしまったら二度と造ることはできない建物をもつ宿が今また人気を集めているのは、文明化した生活が必ずしも正解だったわけではなく、連綿と続いてきた日本人の暮らし方や文化への憧憬(しょうけい)をもつ人が増えているということかもしれません。次の旅行では、日本の宿の原風景を求めて、宿選びをしてみてはいかがでしょう。

筆者プロフィール: 野添ちかこ

全国の温泉地を旅する温泉と宿のライター。BIGLOBE温泉で「お湯の数だけ抱きしめて」、「すこやか健保」(健康保険組合連合会)で「温泉de健康に」連載中。著書に『千葉の湯めぐり』(幹書房)がある。日本温泉協会理事、3つ星温泉ソムリエ、温泉入浴指導員、温泉利用指導者(厚生労働省認定)、温泉カリスマ(大阪観光大学)、温泉指南役(岡山・湯原温泉)。公式HP「野添ちかこのVia-spa」