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初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。
人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。
そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について
気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。
「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。
誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、
女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。
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音のない夏休み

その年、大学が夏休みの間、私はいつもより少し長めに母方の祖父母の家へ滞在することになった。もともと細身だった祖父は、大きな病を得てみるみる衰えていった。本人の意向もあって、自宅で最期を迎えることがすでに決まっていたのだろう。定期的に医師が訪ねてくるほかは静かな夏だった。

床の間に臥せる祖父を煩わせぬよう、すべての会話が小声でなされた。痛みや不具合があると、聞いたことのない弱々しい調子で祖母の名が何度も呼ばれた。孫の私はお呼びでなかった。深夜になると日中よりさらに小さな声が漏れ聞こえてきた。人前でいちゃつくところなんか絶対に見せなかった彼らの男女の会話を聞くのは初めてで、襖一枚隔てて二人の世界に耳を傾け、呼ばれるまでじっと待機した。

下の世話などは、私が身体を持ち上げている間、祖母が手早く処理する。いざ持ち上げてみると、おそろしく軽かった。これが死にゆく者の軽さか、と思った。もう、少しずつ魂が肉体から離れていっているから、重さも感じないのかもしれない。まさか孫娘にこんな姿を見せることになるとは思っていなかっただろう。だんだん意思疎通も難しくなってきたプライドの高い祖父が、どうかそのことを恥じていたりしませんように、と願った。

理科教師で、化学や地理のほか郷土史にも詳しく古典も嗜み、疑問にはなんでも答えてくれた。賑やかな場所と躾の悪い子供が大嫌いで、孫が遊びに来ると団欒には加わらず一人でブスッと酒を飲んでいた。たまに私だけ二階の書斎へ呼ばれ、植物の和名や稀少姓ばかりが並んだお手製の難読漢字テストを解かされたり、蔵書からの抜粋を読んで意見を求められたりした。褒められると嬉しくもあり、時に疎ましくもあり、もっといろいろ教わりたかった。そんなことを思い出しながら、その人の、薄皮一枚隔てて骨盤の形がくっきり浮き上がった股の間をぐいぐい広げた。

母と交代し東京へ戻ってほどなく、息を引き取ったと連絡があった。少しの親戚と途方もない数の元教え子が参列した葬儀では、「とにかく怖くて厳しくて、でも優しい先生だった」と皆が口を揃えた。でも、この人たちは誰も祖父の口の中にガーゼを突っ込んで痰を拭ったことなどないのだ。そう思うと可笑しくて、涙が出た。私は祖父を愛していた。見苦しいものに遠慮なく悪態をつく激しさや、庭の草木に水をやる姿も好きだったけれど、赤子のように私に身体を預け、痛みに耐えながら何か唸る彼を抱いていると、得も言われぬ気持ちになった。互いが生きている間にあんなに濃密な時間を過ごせて幸福だ、と思った。

よそはよそ、うちはうち

……と、しんみり書いたところでコロッと態度を変えるのだが、私は今、自分の父が何か病に臥せったとして、あのときのように実家で介護をする気は、さらさらない。他のきょうだいたちも最小限にとどめたいと思っているはずだ。経済的な問題さえクリアになれば完全アウトソーシングでもよいと考えているし、たまに身内が集まるとすぐそんな話になる。

なんてひどい娘だ、親不孝者! と思ったそこのあなたのために一つだけ個人情報を書いておくと、我が父は元柔道部、体重100キロ超の巨漢である。60代の今も朝昼晩と飽きもせず特盛のこってりした食事を摂っては膨張を続け、亡くなる直前の母方の祖父の数倍は重量があるはずだ。

母はその後もあちこちの老いた親戚を助けに飛び回り、今も毎月のように祖母のところへ通っているのだが、若い頃から最愛の夫を指差して「この人の介護は、無理」と言っていた。「おすもうさんのおかみさんとか、老後どうしてるのかしらね?」「相撲部屋には若くて力持ちの弟子がいっぱいいるから大丈夫でしょ」「そんな公私混同しないんじゃない? 外注だよ、外注。プロに頼むのが一番。今から貯金しときなよ」といった雑談が繰り返される家だった。

たとえば父がうっかり転倒したとき、一人で助け起こせる自信はまるでない。細身の祖父になら数時間おきにしてやれたことでも、ただ「体が大きい」という要素が加わっただけでずいぶん難しくなる。もし我を忘れて暴れるような症状が出たら、世話する側が怪我を負うかもしれない。「僕としても、なるべくポックリ逝くように、努めますので……」と殊勝に身を縮こまらせてみても体重は増加の一途。一応はまだ元気に健康でいてくれている彼に、どんな老後が待ち受けているのかは、まだ誰にもわからない。

いのちの引っ越し

「だって、素人にはどうしようもないもんね」……私が実感を込めてそう言えるようになったのは、祖父と最期の時間を過ごして以降のことだった。

血の繋がった子供が老親の面倒を看ることで育ててもらった御恩を返すものだ、それが「一般的」だ、という昔ながらの価値観を、他の多くの人々と同様、私もかつては漠然と持っていた。テレビドラマなどで観る「介護」の描写といえば、車椅子を押して散歩に付き合ったり、スプーンで食事を与えて体を拭いたりする程度だし、当然そのくらいはやったるで、と想像していたのだ、それまでは。

でも現実はそんなにステレオタイプじゃない。これはむしろ、あの世へ旅立つ家族の引越作業を、赤帽で済ませられるか、それとも10トントラックを呼ぶべきか、という話に近い。きちんと見積もりと段取りを把握して、のちのち「こんなはずじゃなかった」となるような手配ミスを犯さないことが何より肝要だ。グランドピアノやシャンデリアを運び込まねばならない大掛かりな引越で「私が全部やりますから!」と業者を拒む人はまずいないだろう。仮に素人が一人で運んだからといって何が偉いのか、という話でもある。いや、「一般的」には偉い偉いってなるんだろうけど、そこは専門家に頼るべきじゃないのか。

今思えば、祖父の介護は諸条件が重なって、まるで予備知識のない家族でも穏やかに看取れる程度で済み、しかも短期でケリがついて、ものすごくラッキーだったのだ。その意味でも「昔ながら」だった。当時は私なりに頑張った気でいたけれど、数十年にわたって先の見えない状態で重篤な家族の介護を続けている人たちだっているし、一昔前までならコロッと死ぬはずの老人が、医療技術の粋を尽くして、なんだかおそろしく長生きできる時代にもなっている。古色ゆかしい「赤帽」作業をほんのちょっと手伝った程度ですべてを語れるわけではないし、逆に他の人々の経験談を聞くたびに「やはり、餅は餅屋だな」と思うようになった。

差し出される人生の時間

愛情の多寡とか、孝行の度合いとか、そんなものとはいっさい関係なく、家族にできる介護と、できない介護とがある。家庭の事情はそれぞれだし、どう転んでも、根性論だけでは到底解決しないケースのほうが多い。そして、何も介護だけが親孝行ではないはずだ。

ただし、それまでさんざん親不孝をしてきた子供が、最後の最期に一発逆転の親孝行をして、ここぞとばかりあらゆるツケを帳消しにできるチャンス、といった考え方もある。このツケはもちろん払えるうちに払っておいたほうがいいので、そう考える人の気持ちもわかる。

10代で逃げるように親元を飛び出し、ずっと親のことなど気にもかけず好き勝手に生きてきた放蕩息子や放蕩娘が、齢を重ねていくうち急に人生の孝行収支のアンバランスに気づき、まるで人が変わったように実家の老親の世話を焼きはじめる、というケースを周囲でもたくさん見てきた。18で上京して留学先で結婚した母だってその一人なのだろうし、実家には二度と戻らないと決めている私だって、いずれはあの父親の巨躯を持ち上げて入浴介助ができる技術を身につけたりするのかもしれない。

子を産み育てる期間は、次の世代の世話をするために人生の時間を切り出す。同じように、前の世代の世話をするために差し出される人生の時間もある。ここを「節目」と考えて、たとえば大好きだった仕事を辞めたり遠方へ転居したり、大きく舵をきりかえていく人たちもいる。私には、その気持ちもわかる。

もう東京へ帰りなさい、と言われても、なんだかんだと理由をつけてずるずる祖父母の家にとどまった、少しでも長くこの時間が続けばいいと思っていた、静かな夏の記憶がよみがえる。


岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。

イラスト: 安海