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初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。
人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。
そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について
気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。
「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。
誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、
女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。
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新しい世界で、俺はどうなるか
志望大学からの合格通知を受け取ったのは、1997年12月のことだった。両親はあまりよい顔をしなかった。高校三年の二学期になってから初めて名前を知った私立大の新設学部へ書類を送り、たった一度の面接で入学を許可された私は、「なんか、志が低い」と評された。「アドミッションズ・オフィス(AO)入試」というこの制度は、今ほど一般的ではなかった。
母校からの合格実績はたった一人、部活動と委員会で輝かしい成果を残した模範的優等生だ。職員室には「指定校推薦より狭き門なんだから、岡田さんみたいな生徒には無理」と推薦状の執筆を断られたりもした。私とて勝算があったわけではない。一般入試という正面扉が2月まで閉ざされていて、AO入試という窓が10月からふわふわ開いているのなら、寒い中おとなしく行列してドアが開くのを待つよりも、柵を越えて窓枠をよじのぼって侵入してみようと思ったまでだ。落ちて痛いのは私だけなんだから。当時はまだかなり高い評定平均値が求められたとはいえ、こんな考えの生徒が二人目の合格例となるのだから、優等生の先輩には悪いが「アホでも・オッケー入試」とは言い得て妙である。
ほんの数月前までは関西の国立大学が第一志望だった。「今まで進学塾にかけた費用をドブに捨てて、倍近いお金を払って、その私立へ行くのね?」と算盤をはじく親の溜息がチクチク刺さる。売り言葉に買い言葉で、気づけば「うっせーな、全額自分で払やいいんだろ!」と言っていた。17歳の私は、そんな啖呵を切るのも楽しかった。来春になれば、一貫校のエスカレーターをようやく降りられる。しかも卒業までの三ヶ月間、好きなことをして過ごせる。真っ先にやりたいのは「アルバイト」だ。私は学びながら働いて稼いで、ゆくゆくは学費も自力で返済して、自分で自分の未来を作るのだ。
怠けてりゃパンも買えまい
自立への第一歩、とはいえ初めての働き口も結局は親に世話してもらった。知人の家で男子小学生の家庭教師、謝礼はたしか、2時間で5000円くらい。「東大生が受験生を教えれば2倍の額なのに」と嘆かれて、「援助交際すれば10倍の額だね」と口答えした。たしかに割のいいバイトだが、期待したほどの高揚感はなかった。岡村靖幸の聴きすぎかもしれない。薄給でいいからもっと面白い仕事がしたいと考えて、近所のベーカリーレストランでウェイトレスを始めた。私にとっての「節目」はこちらのほうだ。
店全体を仕切るのが店長、接客の長は副店長、キッチンは料理長の管轄で、彼ら三人の社員から指導を受けて、仕事の心構えを学んだ。手間を惜しまず、いついかなるときもまずお客様のご要望を最優先に据えろ。ただしワンウェイ・ツージョブ以下の非効率な動き方はするな。呼ばれる前にお客様のお側へ出向き、許されるまでお食事を妨げるな。待ち時間も姿勢は崩すな。せかせかするな、ゆっくり動いてテキパキやれ。「ありがとうございます」に過去形を使うな。見えない場所でも指先まで神経を張り詰めろ、お客様の口に入るものに「これでいいや」はない。不用意な言動がお客様の大切な時間を台無しにすると心得て、絶対にそれをするな。「ただ皿を運ぶためだけにおまえを雇っているんじゃない」と言われた。私こそがこの店のホスピタリティそのものである、という立ち居振る舞いを心がけ、理念の体現者たれ、と。
平日ランチタイムはいつも百戦錬磨のパート主婦が陣頭指揮を執り、平日夜は若いスタッフが中心でサークル風、ロングシフトの週末は昼も夜も同じ釜から賄い飯を食いつつ、ぶっ続けで働いた。時給が上がり、レジを任され、先輩から「あなた、動ける子ね」と言われると嬉しかった。たまに失敗すれば死ぬほど落ち込んだ。こんなふうに誰かに背筋を伸ばされたことはなかった。こんなふうに己の行いやその成果を誇らしく思い、責任を感じたこともなかった。
両親はまたしてもよい顔をしなかった。大学進学を控えた娘が鉄板とパン窯の焦げた匂いにタバコ臭がまじったねばつく空気をまとって帰宅し、800円の時給が30円上がったと喜んでは、頬を上気させながら「お客様の喜びが私どもの喜び」などと唱えはじめたので、「新興宗教にでもハマッたみたいだ」と評された。だとすれば、私はとてもよいところに「入信」したと思う。そこは学校以外に私が初めて所属した社会集団であり、スポーツや稽古事で厳しくしごかれた経験がない私にとって、初めて体験する「体育会系」のプレイフィールドだった。
洗練されたマニュアル通りに立ち回り、反復と継続によってキレを身につけ、徐々に上達して理想のフォームに近づいていく喜び。基本の動作にちょっとした機転をプラスすることで万事がスムースに連結していく喜び。互いに声を掛け合い、一人のミスを全員で補いながら完成度を高めていくチームプレーの喜び。個を捨てて大いなるオペレーションの一部に徹し、最高のパフォーマンスを発揮することで、最終的にはまた個として賞賛される喜び。今思えば奇跡のようだが、この店舗にはパワハラも根性論もなく、ただ、素晴らしいチームと論理的な戦術と、合理主義に裏打ちされたしなやかな連帯感があった。
持ち場につけ、抜かるなよ
もちろん家庭教師のバイトも続けていた。高校出たての小娘が、豪邸に住むお金持ちの大人から「センセイ」と呼ばれ、模範解答の冊子を読み上げながら子供と一緒に問題集を解き、ベビーシッターに毛が生えた程度の世話を焼いて、勤務態度への評価も技術の向上もないまま、高額の月謝やボーナスをもらう。楽勝である。
でも、エプロンの腰紐をコルセットのようにきつく締め上げて背筋を支え、皿が冷めることを断固許さないキッチン勢にどやされながらフロアを駆けずり回るあの興奮は、そこにはなかった。私はもっと、不特定多数のお客様と一期一会の勝負を切り結ぶような仕事がいい。毎日毎日、新しい相手に新しいパンを焼き新しい皿を供して、次に何が起こるのかまったく想像のつかない職場がいい。
一方で、収入源を一つの職場に頼り、毎日みっちり勤めるのも好きではなかった。ウェイトレスの後はバーでギャルソンを始め、家庭教師は予備校のチューターと個別指導塾の講師に切り替えて、クレジットカードの営業や、スーパーの実演販売、シンクタンクの調査員、ウェブサイトのコピーライターもした。大学へ上がると学業が忙しくなったので、月数日の拘束で数万円、と基準額を決めてそれだけ稼ぐようにした。
たとえば家庭教師のバイトだけを週何コマも回していたら、まさか自分がアボカドの実食販売にあれほどの才覚を発揮するとは知らずに一生を終えただろう。東中野のスーパーの片隅で、もしかしてこれが天職か、とさえ考えた。でも、きっとまだまだ、そう思える仕事が世界中にたくさん転がっているのだろう、オラ、ワクワクしてきたぞ、とも考えた。 私は自分が生きていけるだけのお金を自分で働いて手にしたいだけだった。大学へ通うとか趣味を楽しむとか、そんな自由を買い取りたいだけだ。もし病んだり老いたりしたら誰かのお世話になるだろうけど、それを雇うお金だって今から貯めておきたいと思っていた。でも一方で、せっかくなら向いていて楽しい仕事のほうがいい、と欲を出すようにもなった。
楽して稼ごうと思えば逆に、自分の時間やスキル、可能性を無駄にしていたと思う。それぞれのバイト先で、それぞれに魅力的な人と出会い、それぞれに面白いことが起きた。いつかこのことをどこかで書こう、と思いながら働いた。そのうち一つに編集アシスタントのバイトがある。出版社の人に「今すぐにでもプロの編集者になれるよー」とおだてられたことが、現在に結びついている。
仕事なければそれだけ命が縮む
一度に二つまでしか皿を運べず音を立てて客の前に投げ出すウェイトレス、飲み終えると同時にひったくるように空いたグラスを下げるバーテンダー、家畜の群れでも扱うような態度の入場整理係、棒立ちで闇雲に宣伝文句を怒鳴っているだけの売り子。こんなに一生懸命働いているのにどうしてこんなに生活が苦しいんだ、という顔をして、満員電車で他者を押しのけるときだけ瞳をギラギラ輝かせる社畜たち。
私たちの多くは、本当は、働きたくなんかないんだ。と人は言う。男も女も老いも若きも、生計のために仕方なく働いて、不当な待遇で使い捨てにされて、好きでもない、やりたくもないことを強いられて一生を終えるのだから、不平不満を顔に出して生きていて何が悪い、と言う。一方で内閣府が、若い女性の専業主婦願望が高まっていると言う。ほらみろ、外へ出て働きたがる女性のほうが少数派じゃないか。やっぱり女は家庭に入るのが一番だ。そんなはした金が何になる? いったい誰が子供の面倒を看るんだ? 家族の幸福を顧みず働くなんて虚しいだけだろう。
私には、「最近の若い女性」の「安定志向のあらわれ」と評されるこの専業主婦願望が、正直よく理解できない。みんな本当にそう思ってるんだろうか? どう考えても共働きのほうが生活安定しそうだが。もしかして誰かオッサンに将来の不安を煽られて、誘導尋問に引かれて適当に選んだ回答を、少子化対策に都合よく利用されてるだけなんじゃないの? もし目の前に専業主婦志望の10代女子があらわれたら、「騙されたと思って、まずはバイトしてごらんよ」と言いたい。
外へ出て働く仕事も、夫を支えて子供を産み育てる仕事も、「やってみるまで向き不向きがわからない」のはまったく同じだ。ひょっとしたら彼女たちは、「主婦」も「仕事」であるということを、巧みな誘導尋問でごまかされてやしないのか。内でも外でも好きな職種に就けばいいと思うけど、たくさんあるはずの選択肢の大半を、誰かにあらかじめ取り上げられてやしないのか。もちろん別の集団には「育休期間くらい、主夫業に専念してみてごらんよ」と言いたい。話はそれからだ。
17歳のとき、近所のベーカリーレストランに、初めてバイトの面接に行った。応対した副店長は私の履歴書を一瞥し、「高校生。今までに、働いたことが、一度もない……」とつぶやいた。厄介なのが来たな、という表情だった。数ヶ月後、別店舗へ異動が決まった彼は「おまえはデキる奴になったな。これからも、自分の仕事を、頑張れよ」と励ましてくれた。あれはきっと、ウェイトレスのことだけを言ったのではない。
私たちは誰もが、生活のために仕方なく、貴重な時間をパートに分けて切り売りしながら生きている。でも一方で私たちは、労働によって生かされてもいる。働くことを奪われたら、私はきっと死ぬほどつらい。食いっぱぐれるというだけじゃなく、もっと大きな意味で。初めてのバイトが、そんな職業観を私に刷り込んだ。「神戸屋」チェーンでお代わり自由の焼きたてパンを食べると、いつもそのことを思い出す。私が「働かざる者」から「働く者」になった節目は、あのギンガムチェックのエプロンとともにある。
<今回の住まい>
実家から徒歩数分の店でバイトを始めるまで、私には「近所の友達」というものがいなかった。一貫校に通うとはそういうことだ。幼稚園の同窓生や学校の級友に家の近い子はいたが、それだけで親しくなるものでもない。大学が近いとか寮があるとか、縁あって近所に住んでいる歳近いバイト仲間と飲みに行くとき、「みんなで集まるのに便利」という理由で沿線すぐ隣駅の店が選ばれて、なんだかそれが嬉しかった。渋谷や新宿ではなく、ここが便利。今はもうバラバラの人生を歩んでいるけれど、私にもほんのひととき「地元」があった。
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。
イラスト: 安海