19番札所の「立江寺」から20番札所の「霊鷲山 鶴林寺(りょうじゅざん かくりんじ)」まで約13.8km。徒歩約5時間もの道のり。遠い! 鶴林寺は、地元の人やお遍路さんに「お鶴」「お鶴さん」などと呼ばれている。前回でも少し述べたが、鶴林寺は四国88カ所札所巡りの3難所寺の1つで「1に焼山(焼山寺)、2にお鶴(鶴林寺)、3に太龍(太龍寺)」と言われているそうだ。

2番目に難所と言われるだけに、急な山道を登った標高約570mの山頂にお寺がある。鶴林寺登山口と看板が出ているところで、いきなり雨がザァザァ降って来た。慌ててリュックから雨カッパと傘を取り出す。頭にかぶっている笠はビニールがかぶせてあって一応雨避けにはなっているのだが、ビニールに穴があいていて、そこから水がしみてくる。それに、横から降る雨で顔が濡れるので、雨カッパを着て笠をかぶったうえに傘も差し、山道を登った。雨のせいか、小さなカニが道を横切る。都会では見られない巨大サイズのミミズがウヨウヨいて気持ちが悪い。カニやミミズ以外には、誰ともすれ違わない。みかん畑を横切り、どんどん進む。雨だと、山の上のほうから水が流れて来て、歩きづらい。

弘法大師の伝説がある「水呑大師」

鶴林寺登山口のところから歩いて約1時間くらいのでところで弘法大師が杖でついたら、水が噴出したという伝説がある「水呑大師」の小さな祠に到着した。そこで、名古屋から1人で歩きお遍路をしているという60歳くらいのおじさんと出会い、なんとなく一緒に歩く事になった。「水呑大師」からさらに約1時間歩いて、ようやく山門が見えて来た。

山門にある運慶作と伝えられている仁王様についてお寺の方に「仁王様、本当に運慶作なんですか?」と聞いたら「そう伝えられていますが、たぶん違うと思いますよ」とのこと。また仁王様の後ろに、木像の鶴の像が置かれていた。この木製の鶴が置かれているのにも理由があって、なんでも第2次世界大戦ときに本堂前に置かれていた青銅製の鶴は、軍の武器製造の材料にするため供出された。かわりに木で鶴を彫ったそうだ。戦争が終わり、新たに青銅製の鶴を2羽本堂前に設置したので、その前に作られた木像の鶴は山門に置いたそうだ。

鶴林寺は延暦17年(798)、恒武天皇の願いにより弘法大師が開基したと言われている。寺名の由来には、このような伝説がある。この寺で弘法大師が修行していたときに、2羽の鶴が黄金の地蔵菩薩像を持って杉の木に舞い降りた。それを見た弘法大師は、3尺(約1m)の地蔵菩薩を彫って、鶴が持っていた黄金の地蔵菩薩像をその胎内に納めて本尊としたそうだ。それで鶴の名がつく寺名となった。また、鶴が地蔵菩薩の像を持って舞い降りたという杉の木は、現在も本堂の左手にある。

「鶴林寺」本堂

青銅製の鶴の像

ご本尊降臨之杉

山号の「霊鷲山」は、ここの山とお釈迦さまが説法されたインドの霊鷲山が似ているところから名付けられたと伝えられている。

弘法大師作と言われる本尊の地蔵菩薩は、国の重要文化財にも指定されている。この像は別名、「矢負い地蔵」と呼ばれている。なんでも昔殺生が禁止されていたこの山で猟師が猪に矢を射たら、本尊のお地蔵様が矢を猪の身代わりになって受けられたそうだ。お寺の方に聞いたら、本尊のお地蔵さまには本当に矢の傷がついているとのこと。また、伊勢神宮の船を暴風雨から守ったことから「波切地蔵」とも呼ばれている。「なぜ山頂にいるお地蔵さまが海の災難を救えたのですか?」と聞くと「この寺のお地蔵さまは、前のめりに立っておられて、いつでもどこに飛んでいって人々を救うと言われていることから、そういう伝説があります。この本尊の地蔵菩薩は重要文化財になっていますが、秘仏で公開はしていません」とのこと。見たかったのに、かなり残念だ!

本堂の右手にある三重塔は、江戸末期の文政6年(1823)に、和様と唐様と異なった建築様式で建てられたもので、貴重とされている。でも、雨で霞んでよく見えない。

そのほか、鶴林寺には「千枚通し」という水に溶ける紙のお札が1,000円で売られている。修行を積んでいる人が千日間欠かさず、千日通しの紙を水に溶かして飲むと願いが叶うのだそうだ。お寺の方いわく、「修行をしてない普通の人がただ飲んでも効果はありません」とのこと。だが、修行をしていない普通の人は、千日も飲み続けられないだろう。ダイエットも3日坊主の私では無理だ。

三重塔

売られていた「お千枚通し」

のんびりしていたら、今晩泊まる予定にしている21番札所の先にある宿「坂口屋」の夕飯の時間までにたどり着けないかもしれないし、雨でベンチに座ってゆっくり休めないので、そそくさと納経をすませ、出発することにした。途中で一緒になったお遍路さん一緒に山を下り、21番札所「太龍寺」を目指して歩く。