仏像を見て歩いていると、あちこちで「弘法大師 空海作」と言われる仏像や空海が建立したと言われるお寺に出会った。また、空海が杖をついて水が沸き出てきた井戸というような伝説が数多く残っているのを知った。仏像を見て歩いているうちに、そういう色々な空海の伝説に出会い、しだいに空海に興味が沸いてきた。今回は私が「私が弘法大師・空海に魅かれる理由」について話したいと思う。なぜ、空海? と思われるかもしれないが、お遍路と空海はかなり密接に関わっているのである。
空海のスーパーヒーローな生涯
空海は、774年(宝亀5年)四国の香川県善通寺市に産まれた。幼名は、真魚(まお)。伯父さんに論語、孝経などを学ぶ。15歳で奈良に上京し、18歳で大学に入学した。しかし、大学で学ぶ儒教の教えは自分の求めるものではないとし、大学を辞めてしまう。その後、仏教の山岳修行をするようになったとされている。19歳のとき、現在の高知県室戸岬にある洞窟(御蔵洞)で修行していた際、口に明星(金星)が飛び込んできたことで、悟りを開いたと言われている。そのときに、真魚が目にしていたものは海と空だけであったので、それ以後、"空海"と名乗るようになった。
804年、空海が31歳の年に最澄とともに遣唐使として唐に渡る。32歳で中国密教の最高峰である青龍寺の恵果阿闍梨から密教の奥義を全て伝授され、"南無大師遍照金剛"の称号が与えられた。当時の中国・日本で伝法阿闍梨位の灌頂(正当な後継者となる儀式)を受けたのは、空海一人だけ。つまり、中国人を差し置いて真言密教の正当な継承者となったわけだ。いきなり日本からやってきた留学生が跡継ぎになってしまうなんて、普通だったら考えられない。それができてしまったということが、空海は本当にすごい。当然空海は、中国語もマスターしていたらしい。天才だわ!
33歳、20年の留学予定を2年で切り上げて日本に帰国。帰国した空海は数年間、九州太宰府に留まることとなる。そして、34歳で大阪の慎尾山施福寺に移り、36歳で京都の高雄山寺(のちの神護寺)に移る。またその当時、空海より先に帰国していた最澄が持ち帰った密教が万全なものではなかったので、空海の持ち帰ったお経を何度か借りた。何度もお経を貸していた空海だが、最澄が空海に密教において特に重要なお経を貸してと言ってきたときは、貸さなかったそうだ。完璧なスーパーヒーローでなく、そういう空海の人間臭いところもたまらないのよねぇ~。
最澄は空海から灌頂をを受け、空海の弟子となった。そして3年間、空海の元で修行するように言われるが、最澄は天台宗の開祖であり、多忙のため3カ月で比叡山に戻ってしまう。そのかわりに、と最澄は自分の弟子を置いていくが、その弟子は後に空海の弟子になってしまう。最澄の弟子が寝返るなんて、空海はよほど魅力的な人物だったに違いない。
そして43歳、嵯峨天皇より高野山を賜る。そこに真言宗の総本山である金剛峯寺を開いた。50歳で平安京の東寺(とうじ)を与えられ、ここを教王護国寺(きょうおうごこくじ)と名づけて密教の中心道場とした。この東寺に学校を作るなど社会事業も行った。その後も空海は僧としての活動のほか、中国で学んできた土木技術で治水工事の指揮をしたり、中国仕込みの漢方を使った医術を施したり、「弘法筆を選ばず」ということわざを生むほど達筆と言われていたり、文字習得の基本とされた「いろはうた」を作った(否定説もあるが)と言われていたりと、多くの伝説が残っている。まさに密教の後継のみならず、土木・建築・医術など幅広い分野で才能を発揮したスーパーヒーローなのだ。ああ、ステキ!
承和2年(835年)3月21日に、空海は61歳に入定された(入定とは、生死の境を超えて永遠の禅定行にはいること)。朝廷が特に偉大であった僧に死後送る諡号(しごう)の"大師"の名が、空海が入定して約80年後に与えられた。その諡号が、"弘法大師"なのだ(ちなみに最澄は"伝教大師")。と、こうした一連の空海の功労を知るにつれ、すっかり空海は私の中でスーパーヒーロ-となった。
その結果、空海が歩いたと言われる四国八十八カ所を巡るのお遍路に是非行きたい! スーパーヒーローの道程を歩きたい! と思うようになったというわけだ。次回は、実際に買い揃えたお遍路グッズを紹介します。