14番札所常楽寺から15番札所 薬王山 国分寺(やくおうざん こくぶんじ)までは約0.8km。田んぼを横目に歩く。住宅の合間から本堂らしい建物が見えるが、住宅に囲まれていて入り口がどこだかちょっとわかりにくい。山門にたどり着くと入り口の所で本堂をスケッチしている人が座っていた。山門をくぐり、目の前に見える入母屋造りの2層の重厚な感じの本堂はとてもおもむきがあって歴史が感じられた。この本堂は、天正年間(1573~1592)年に長宗我部の兵火で焼失した後に、寛保年間(1741~1743年)に建てられたものだそうだ。本堂の格子をのぞきこむと本尊の薬師如来が見えた。
国分寺とは聖武天皇が天平13(741)年に国の平和を願って造らせたお寺で、奈良の東大寺を筆頭に、日本全国に66寺も造られた。四国には4つ国分寺があり、ここの国分寺はそのうちの1つ。行基によって開かれた。行基は、釈迦如来像と大般若経を納め、本堂には光明皇后の位牌厨子(一尺七寸)を奉祀したと伝えられている。2km四方もある境内に、金堂を中心にして七重の塔が建ち並んだ壮麗な寺院だったが、平安時代には衰退し、荒寺となり行基が修めたと言われている仏像などもいつのまにか失われていたという。
境内の片隅に、興弾寺前の田んぼから発見された七重塔の心礎(仏塔の中心の柱の礎石)が置かれている。ここの境内は、徳島県指定の史跡になっている。
天正年間(1573~1592)の兵火により、鳥瑟沙摩明王堂(うすさまみょうおうどう)のみを残して焼失した後、四国を行脚していた弘法大師が廃寺となっていた国分寺を訪れて、烏瑟沙摩明王 (うすさまみょうおう)を刻んで霊場としたそうだ。烏瑟沙摩明王は境内の烏瑟沙摩明王堂に祀られている。その兵火に焼け残ったという烏瑟沙摩明王堂も、いつの間にか建て替えられたといわれている。
烏瑟沙摩明王は、火頭金剛とも不浄金剛とも呼ばれていて、世の中の穢れ(けがれ)や悪を焼き尽くして、不浄を清浄にする徳を持っているそうだ。古くからトイレは魔物の出入り口と考えられていたため、禅宗に限らず民家や商家などでもトイレに烏枢沙摩明王を祀っていた。そのため時々トイレに烏瑟沙摩明王のお札を貼っているのを見かける。
その後、寛保元年の1741年に阿波藩の藩主の蜂須賀公の命よって再建し、以来宗派も現在の曹洞宗となった。だから、法相宗→真言宗→曹洞宗と三度も改宗ことになる。現在本堂に祀られている聖武天皇、光明皇后の位牌も、江戸時代に作られた物だそうだ。
平成5(1993)年に、大師堂は火災に遭い、今は礎石だけが残っている。再建されずに烏瑟沙摩明王堂が今は大師堂として使われている。
本堂裏の庭園は、大きな石が立ち並ぶ池泉式鑑賞式の庭園(涸池)と枯山水の二つの様式の庭。現在は、国指定「名勝」庭園となっている。通常は一般公開されていないが、前日までに予約していれば見る事ができる(ただし少人数のみ)。
私は予約して行ったので中に入れてもらえた。お庭を案内してくるのかと思ったらただ「ここから入ってください」と案内してくれただけだった。庭は、巨立石で石組みされて築山、枯滝など表された安土桃山初期時代の古庭園だ。こういう庭は今まで見たことがない。大岩のトンネルをくぐったりもでき、すごかった。ただ調査中ということで所々にブルーシートで覆われていて、工事中のようにも見えるのが残念だった。
小さなお寺なのに見どころ満載なお寺だった。満足した気持ちで、16番札所「観音寺」を目指して出発する。