セイコーエプソンは、インクジェットプリンタのコア技術となる「マイクロTFP(Thin Film Piezo)プリントチップ」の生産能力を、2025年度までに、現在の2倍近くに引き上げる計画を明らかにした。最先端の生産拠点である長野県塩尻市の広丘事業所に、今後3年間で、総額で約230億円の投資を行い、同拠点における生産規模を3.5倍に拡大。長野県富士見町の諏訪南事業所の生産ラインを含めて、全体の生産能力を約2倍にすることになる。ハイブリットワークの進展やペーパーレス化が進むなかで、プリンティング需要の縮小も指摘されている。そうしたなか、なぜエプソンは、インクジェットプリンタに搭載するマイクロTFPプリントチップの生産を増強するのだろうか。
セイコーエプソンが発表したマイクロTFPプリントチップの生産ラインへの投資計画は、2018年7月に竣工した広丘事業所9号館における生産ラインの増強を目的としたものになる。
インクジェットプリンタのコアデバイスとなるPrecisionCoreプリントヘッドの前工程生産を行なう拠点であり、2016年秋から約255億円を投資して建設。2018年度下期から稼働させていた。その時点から、広丘事業所と諏訪南事業所をあわせて、将来的には3倍規模にまで生産を拡大する計画を打ち出しており、今回の広丘事業所での生産規模の大幅な拡大により、計画達成に向けて大きな一歩を踏み出すことになる。
クリーンルームを新たに実装するとともに、露光現像装置やエッチング装置、洗浄装置などの機械装置を設置。同社では、「2024年度までに、新たに1フロアのクリーンルーム化を図り、クリーンルームの面積をほぼ倍にするとともに、既存フロアも含めて、新たな機械設備を導入して増産体制を整える」としている。
広丘事業所9号館は、建築面積が10,653平方メートル。制振・耐震構造を採用した鉄骨造の地下1階、地上5階建てとなっている。延床面積は46,915平方メートルを誇り、4階までを生産ラインとする4層構造でのクリーンルーム構成が可能となる。1フロアあたりは、71m×106mという大空間を実現しているのも特徴だ。建設当初から増産に必要なスペースを確保しており、今回の生産ラインの増強も、新規の建物建設は行わずに実行できる。
マイクロTFPプリントチップの生産は、諏訪南工場が主力となっているが、同工場では、もともとプロジェクタ向けパネルの生産を行なっていた経緯があり、装置の配置などに制約があったのに対して、広丘事業所9号館は、専用工場として設計されたことから、生産性の高いラインを構築でき、スペース生産性は20%増となっている点も特徴だ。
ちなみに、マイクロTFPプリントチップを組み合わせて「PrecisionCoreプリントヘッド」として組み立てる後工程は、山形県酒田市の東北エプソンと、秋田県湯沢市の秋田エプソンで行っている。ここでは、マイクロTFPプリントチップを直列に並べたシリアルヘッド方式や、高速印刷などに適したラインヘッド方式といったように、用途に合わせた柔軟で多様なプリントヘッドの構成を可能としている。秋田エプソンでは、インクジェットプリンタ用ヘッドの生産能力増強のため、総額で約35億円の投資を発表。敷地内に新棟を建設し、2023年12月には竣工する予定だ。
このように、エプソンでは、PrecisionCoreプリントチップと、それを搭載したプリントヘッドに至るまで、国内拠点による一貫した開発生産体制を構築。次世代プリントヘッドに関する技術的ノウハウの蓄積を図るとともに、生産技術を磐石なものとして強化。コアデバイスの競争優位性を向上させている。
広丘事業所9号館および諏訪南工場で生産しているマイクロTFPプリントチップは、エプソン独自のインクジェット技術であるPrecisionCoreプリントヘッドにおいて、インクの吐出を担うコア部品であり、エプソンのインクジェットプリンタの約2割に搭載されている。
PrecisionCoreは、2013年9月に登場した「マイクロピエゾの理想形」と位置づけられるプリントヘッドであり、今年は製品化から10年目の節目を迎えている。
サブミクロン単位での超微細加工が可能な高精度なMEMS加工技術や、厚さ1マイクロメートルのピエゾ素子で形成する要素技術を活用した薄膜ピエゾテクノロジーなどを融合させ、印刷の高速化と高品質を両立するとともに、色再現性や効率性、適用範囲の広さ、環境面などにおいて優れた性能を発揮することができる。
ノズルのひとつひとつを異なる制御によって、10億分の7グラム程度の微細なインク滴を、1秒間に5万発噴射することができるのが特徴だ。インクジェットプリンタの画質と速度を決定する重要なコアデバイスだ。
さらに、PrecisionCoreプリントヘッドは、他のインクジェットプリンタとは異なり、インク滴の吐出の際に、熱を使わないため、ヘッドの耐久性が高く、インクの種類を選ばない柔軟性も特徴となっている。
これを実現するためには、生産においても高度な技術が必要となっている。
エプソンでは20年以上に渡り培ってきたインクジェット技術と、半導体で培ったMEMS技術の融合に加えて、自社が持つ産業用ロボットを駆使することで、高い品質と生産性を両立する完全自動生産ラインを実現しているという。国内生産にこだわっている理由もそこにある。
では、なぜ、エプソンは、マイクロTFPプリントチップの生産能力を倍増することにしたのだろうか。
それにはいくつかの理由がある。
ひとつめは、オフィス向けインクジェットプリンタの提案の強化である。
コロナ禍において、テレワークが浸透し、オフィスへの出社が減り、プリント需要は大幅に減少。ペーパーレス化が一気に進展した。その影響を受けて、オフィス向けプリンタ市場や複合機市場は、大幅に縮小した。
だが、その一方で、印刷ロケーションの分散化により、大規模にセンターマシンを設置するのではなく、プリントボリュームにあわせて、最適なサイズのプリンタを配置するいった動きや、省エネや省資源といった環境負荷低減に対する関心が高まっており、それにあわせて、低消費電力であるエプソンのインクジェットプリンタへの関心が高まるといった動きが見られている。また、レーザープリンタに比べて、印刷待ち時間が少ないこと、消耗品交換の手間が削減されるといったメリットにも注目が集まっている。
とくに、環境対応という点では、レーザープリンタをインクジェットプリンタに置き換えるだけで、CO2排出量を47%以上削減でき、政府が2030年に目標としている温室効果ガス削減目標の46%減にも大きく貢献できるというわけだ。
エプソンでは、2023年2月に、複合機の主力市場となる印刷速度40~60ppm(1分あたり40~60枚を印刷速度)の製品群を投入。リコーやキヤノン、富士フイルムビジネスイノベーションといった複合機が圧倒的なシェアを持つオフィスのセンターマシンの領域にも、インクジェットプリンタで切り込んでいく姿勢をみせている。
エプソンでは、PrecisionCoreを搭載したプリンタを、従来の複合機からの置き換えを提案。今後は、製品ラインアップをインクジェットに一本化し、2026年には、レーザープリンタの販売を終了する計画を打ち出している。
さらに、海外市場を中心に、PrecisionCoreを搭載したビジネス向け大容量インクタンクモデルの販売を強化。日本市場においても、EW-M674FTやEW-M634TといったPrecisionCoreを搭載したオフィス向け大容量インクタンクモデルを投入しており、オフィスプリンティング市場における選択肢を広げている。
エプソンのホーム・オフィス向けインクジェットプリンタは、大容量インクタンクの販売拡大などを背景に、2022年度には過去最高となる約1700万台を出荷。2023年度には約1830万台の出荷を見込んでいる。過去最高を更新する計画だ。
販売台数の拡大とともに、今後はPrecisionCoreを搭載したプリンタの販売比率が増加すると見込んでおり、これにあわせて、PrecisionCoreの増産体制を敷くことになる。
2つめは、商業・産業分野における印刷需要の拡大だ。
商業印刷分野では、アナログ印刷からデジタル印刷へのシフトが進展しており、コロナ禍での印刷ニーズの変化がこれを後押ししている状況にある。多品種少量印刷を可能にしたり、オンデマンド型印刷が実現したりといった提案がデジタル化によって可能になり、デジタルシフトが、産業印刷分野における新たな需要拡大につながっている。ポスターや看板などのサイネージ需要、商品パッケージなどに貼付するラベルでも少量印刷に対応できる強みを発揮している。
また、産業分野においては、紙以外にも、生地をはじめとした様々なメディアへの印刷が進展しており、なかでも捺染分野での利用拡大が、エプソンのインクジェットプリンタの導入を促進している。アパレルやホームテキスタイル業界では、短いサイクルで、細かなニーズへの対応が不可欠であり、多様化するデザインに対しても、デジタル化が貢献。色数に合わせた版やインクの調合が必要なアナログの課題を解決するデジタル捺染により、短納期、小ロット、省資源、デザインの柔軟性を実現しているというわけだ。
エプソンの商業・産業向けインクジェットプリンタの多くに、マイクロTFPプリントチップが採用されており、今後も販売数量の増加が見込まれるのに加えて、これら分野の製品は、マイクロTFPプリントチップを多数必要とするため、今回の増産は、そうした需要に対応する狙いもある。
そして、3つめは、外販ビジネスの強化だ。
PrecisionCoreプリントヘッドは、2020年度から外販を本格化しており、外販向けの製品群の品揃えを強化している。主要市場となる中国のほか、欧州、北米、韓国でも外販を拡大しており、オフィス分野、商業・産業分野のあらゆる印刷領域に対して、他社からの置き換えや新規顧客案件を含めて、PrecisionCoreによる外販ビジネスを拡大しているところだ。
同社では、エプソンブランドの完成品の競争力が向上したことで、PrecisionCoreプリントヘッドを外販しても、自社製品とカニバリゼーションすることなく、ビジネスを拡大できるとし、エプソンと同じ方向性を持ったプリンタメーカーやボードメーカー、インクメーカーとの協業も進め、エプソンの正規流通プリントヘッドを使用できる環境を確立。これらのメーカーとともに、PrecisionCoreを活用した新たな印刷の世界や、新たなモノづくりの世界を作り上げていく姿勢をみせている。
エプソンによると、2022年度のプリントヘッドの外販ビジネスは、前年比で増収となっており、欧州では3倍以上、米国は2倍以上の伸びを示している。今後は、シェア拡大に向けて、アプリケーション別に、戦略的な強化領域を設定し、それらの分野に対して、訴求力の高い製品を中心に、集中的な顧客開拓を進めていくという。プリントヘッドの外販は、高い事業成長を計画しており、今回の生産体制の増強は、外販ビジネスの強化にもつながることになる。
このように、今回のPrecisionCoreの生産増強は、ビジネス向け大容量インクタンクモデルの販売増加や、普及帯へのオフィス向けインクジェットプリンタの投入、捺染プリンタの拡販をはじめとした商業・産業向けインクジェットプリンタの販売拡大、プリントヘッドの外販ビジネスの拡大といった取り組みのなかで踏み出したものだといえる。
マイクロTFPプリントチップの大幅な生産能力の拡大は、こうした数量の拡大に対応したものであり、市場全体で見られているオフィスプリントのボリューム減少というマイナス要素は影響しないと見ている。
オフィス印刷では環境性能、商業・産業印刷ではデジタル化、外販ビジネスでは先進技術と耐久性、信頼性が強みとなって、マイクロTFPプリントチップは事業を拡大することになる。エプソンのマイクロTFPプリントチップは、逆風ではなく、追い風のなかにあるというのが、同社の経営判断である。