(前編から続く)
セイコーエプソン(以下、エプソン)の独自のプリンティング技術であるマイクロピエゾの進化において、技術的な観点から見て、ひとつの到達点となったのがPrecisionCoreである。2013年9月に発表したPrecisionCoreは、半導体製造技術を活用することで高密度化を実現。オフィス分野から大容量印刷や高速印刷が必要とされる商業分野、産業分野などの用途にも展開でき、エプソンのプリンタ事業を大きく飛躍させることになった。果たして、PrecisionCoreとは、どんな技術なのだろうか。そして、今後、マイクロピエゾはどんな進化を遂げることになるのだろうか。
エプソンが取り組んできたピエゾ方式は、サーマル方式に比べて、耐久性、インク吐出性能、インク選択肢の広さでは、高い優位性を持っていたが、量産性やコスト、高密度化では、改善の余地があった。しかし、2013年9月に発表したPrecisionCoreでは、こうした課題を解決。オールマイティな性能を実現したことで、コンシューマ用途中心からオフィス、商業・産業用途での革新的な商品の実現につなげることができるようになった。
PrecisionCoreを可能にしたエプソンの「省・小・精」
PrecisionCoreでは、約1ミクロンの薄膜ピエゾを採用。これは、人間の髪の毛の太さの100分の1という薄さだ。このピエゾ素子に加える電圧を緻密に制御することで、ひとつのノズル穴から1秒間に最大5万発のインクを、正確な位置に、必要な量だけ吐出することができる。1つのノズルから、大小さまざまなインク滴を、高速に打ち分ける技術によって、多彩で、高画質な印刷を可能にし、滑らかな曲線を描いたり、小さな文字でもくっきりと印字したり、グラデーションや塗りつぶしなどにも的確に対応できるのが特徴だ。
これは、Precision Coreに採用したMEMS加工技術によって実現したものだという。サブミクロンレベルの精度で機械要素部品やセンサー、アクチュエーター、電子回路などを、ひとつのシリコン基板、ガラス基板、有機材料などの上に集積。PrecisionCoreプリントヘッドを構成する精巧なTFPアクチュエーターやインクチャネル、ノズルプレートの形成を実現している。
とくに、PrecisionCoreの中核となるマイクロTFP(Thin Film Piezo)プリントチップは、商業向け大判プリンタに搭載していたエプソン独自の薄膜ピエゾテクノロジーを進化させ、高精度化と小型化を追求したものだ。安定した配向性を持つ高品質なセラミック結晶を焼結形成する技術によって作られたTFPアクチュエーターは、薄く、結晶構造が均質なため、大きな変位量を均一に生み出すことができ、その変位量は従来品の約2倍になった。これにより、プリントヘッドの基本モジュールとしての性能を飛躍的に向上させ、幅広い用途への展開が可能になっている。
また、ノズルプレートには、1列あたり400穴のノズルが2列並び、合計800穴のノズルを持つ。1穴あたりの直径は約20μmであり、高精度に形成されたインク流路とインクノズルを通過して、最小1.5plのインクが吐出される。
さらに、ピエゾ素子は、電圧を加えることで変形する特性と、変形に伴って電圧が発生するという2つの特性を持っていることに着目し、ピエゾ素子をセンサーとしても活用。吐出が正常であるか、気泡が発生して吐出が妨げられていないか、インクの粘度が高まって問題が発生する可能性がないかといったことを、1,000分の1秒単位で検出し、一瞬で状態を自己診断するといった機能を備えた。
もうひとつの欠かせない特徴が、多様なヘッド構成を実現し、拡張性を持っていることだ。
PrecisionCoreは、インクジェットプリンタで一般的なシリアルヘッド方式に加えて、多くのプリントチップを配列させるラインヘッド方式を採用。用紙幅と同等の長さのヘッドにより、ヘッドは固定したまま、紙送り機構のみで全体を印刷し、高速プリントを可能にしている。PrecisionCoreのヘッドを最適配列し、高速印刷と高印字品質を実現することで、オフィスにおけるレーザープリンタや複合機からの置き換え、屋外サインやポスター、デジタルプルーフ、ラベル印刷、捺染、加飾/マーキングといった商業・産業分野への展開など、応用範囲を拡大することができるのだ。
2017年に発表した最初の高速ラインヘッドは、幅約43mmのヘッドに、36枚のマイクロTFPプリントチップを斜めに配列させることにより、有効ノズル数が3万3,500となり、毎分100枚の高速印刷を実現している。
現在では、PrecisionCoreプリントヘッドのラインアップは、8製品にまで拡充している。2023年度上期に投入される予定の新たなPrecisionCoreプリントヘッドは、2製品用意され、ひとつは、溶解性の高い溶剤に適合し、ディスプレイや太陽光発電セルなどの領域においても活用できるなど、様々な印刷要求に応えることができるものだ。またもうひとつは、1チップのみを採用したデザインによって、限られたスペースでの使用が求められる環境や、3D面の基材に近づけた印刷を可能にしたものとなっている。新たなラインアップを加えることで、PrecisionCoreは、これまで以上に、様々なプリンティング用途において、活用の幅が広がることになる。
現在、PrecisionCoreでは、オフィス向けプリンタやホーム向けプリンタ、コピー機の置き換えを目指している高速インクジェット複合機のほか、高速ラベルプリンタ、大判プリンタ、インクジェットデジタルラベル印刷機、インクジェットデジタル捺染機など、幅広い機種に展開している。PrecisionCoreを中核に、あらゆるプリントを置き替えることがエプソンの長期な目標となる。
■エプソン:進化を続けるマイクロピエゾ技術~PrecisionCoreの説明動画
https://corporate.epson/ja/technology/search-by-products/printer-inkjet/micro-piezo.html
PrecisionCoreにおいては、インク技術の進化も、大きな意味を持っている。
マイクロピエゾは、サーマル式とは異なり、インクを吐出する際に熱を使わないため、様々なインクを活用できるという特徴を持つ。これが商業・産業分野での活用の広がりに直結している。
サインやディプレイ分野では、10色エコソルベント(溶剤)インク、デジタルラベルではUV硬化インクを提供。液晶分野などで使用されるカラーフィルターの生産にもカラーレジスト材を用意して、高い光透過率と消偏性によって高輝度を実現できるという。
さらに、捺染においては、アパレルを対象に、広い色域で繊細なグラデーションを実現し、高い洗濯堅牢性や耐汗性を持つUltraChrome DSインク、ガーメントでは写真やイラストなどを精細に表現するUltraChrome DSインク、デジタル捺染分野では繊細な色づかいから鮮やかな発色まで思い通りの色表現ができるGENESTAインクを用意。2022年7月には、ファッションデザイナーであるYUIMA NAKAZATOをサポートし、パリで開催されたパリオートクチュールコレクション(パリコレ)において、エプソンのインクジェット技術を活用して衣装制作や会場造作を行った。衣装の一部に使われた約 0.07 ㎜と極めて薄いシルクオーガンジーの布にも印刷。工程が短いため、コレクション直前まで衣装デザインを作り込むことが可能になったり、従来の捺染工程と比較し、水の使用量を大きく削減し、環境面でも貢献したりといった成果が生まれている。
このように、インクの進化によって、インクジェットプリンティングの可能性を広げているのだ。
グループ内で完結する生産・開発体制も強み
PrecisionCoreの強みのひとつに、薄膜ピエゾからヘッド完成品までの開発、生産をエプソングループで完結している点があげられる。
PrecisionCoreマイクロTFPプリントチップを生産する前工程は、長野県富士見町の諏訪南事業所で行ない、これを使用したプリントヘッドの生産は、山形県酒田市の東北エプソンおよび秋田県湯沢市の秋田エプソンなどで行っている。また、2019年には、長野県塩尻市の広丘事業所に、PrecisionCoreの前工程生産を行う専門工場として9号館を稼働。約255億円を投資して、生産体制を強化した。さらに、秋田エプソンでは、35億円を投資して、2023年12月には、インクジェットプリンタ用ヘッドの生産能力を強化。PrecisionCoreのラインアップ強化や、ヘッドの外販の拡大に向けて、将来的な生産スペースの確保を踏まえた建屋投資計画としている。
さらに、広丘事業所のイノベーションセンターB棟では、インクジェットデジタル捺染機の試作・量産工場としての機能を持たせ、成長領域である捺染分野における研究開発力と生産能力の向上を図っている。
こうした取り組みを通じて、エプソンでは、PrecisionCoreに対する需要拡大への対応と、幅広い用途への展開を視野に入れて、長期的に前工程の生産能力を、2018年比で3倍にまで高める考えを示している。
マイクロピエゾ誕生から30年、大きな進化はむしろこれから?
2023年3月に、マイクロピエゾの誕生から30年の節目を迎えたが、PrecisionCoreの進化によって、マイクロピエゾの応用の可能性はさらに広がることになる。
ひとつは、ピエゾ素子による機構と吐出性能により、水系インクをはじめとしたエコソルベント(溶剤)インクや、UV硬化インクなど、多種多様なインクを吐出することが可能になるというマイクロピエゾならではの特徴が、さらに生かされることになるからだ。これまでの主要市場であったオフィスプリンティングや家庭での印刷といった用途以外での広がりはこれから本番を迎えそうだ。
さらに、「PrecisionCoreは、インクを使い紙に印刷することに限定されていたインクジェットプリンティング技術を、新たなレベルへ引き上げることができる」というように、紙に布に印刷するといった用途以外での動きが加速することになる。たとえば、導電性のインクを用いて回路パターンを形成したり、有機ELパネルの製造や、薄膜レジストの形成といったエレクトロニクス分野での活用のほか、バイオプリンティングや創薬などのバイオ分野での活用、デコレーションや調味といった食品分野での活用なども可能になるという。
「オープンイノベーションにより、新たな発想や技術を持つ外部パートナーとの協力によって、その可能性はどこまでも広がることになる」と自信をみせる。
エプソンでは、PrecisionCoreを中核として、ハードウェアとソフトウェアの2つのプラットフォームを構築し、その上で、パートナーとともに、プリンティングイノベーションにおけるエコシステムを推進することを、長期ビジョン「Epson 25 Renewed」のなかでも示している。また、2019年からは、PrecisionCoreプリントヘッドの外販を開始し、さらに幅広い顧客接点を持つパートナーとの連携も強化しているところだ。「コアデバイスの提供や協業を通して、様々なパートナーとともに、社会課題の解決につなげることができる」と語る。
こうしたマイクロピエゾの特徴は、社会基盤や産業基盤のグリーンイノベーションにも貢献することになる。
たとえば、マイクロピエゾが持つ吐出する材料を選ばないという特徴を活かして、医療分野では、細胞を飛ばして、内臓再生や血管再生を実現。未来の手術の形を変える可能性がある。また、金属を飛ばすことで、3Dプリンタを進化させ、フレキシブル基板などを生成し、未来のプロダクツづくりを変える可能性もある。材料を捨てずに、無駄にしないモノづくりが可能になるともいえる。
さらに、インクジェット技術そのものが、レーザープリンタに比べて消費電力が少なく、環境にやさしい技術として注目が集まっている点も見逃せない。
レーザープリンタでは、予熱をして、トナーを紙に定着させるために熱を使用するだけでなく、帯電や露光、現像、転写、定着といった複雑な印刷プロセスを経るため、結果として部品が多くなり、メンテナンスの工数も増えている。それに対して、エプソンのインクジェットプリンタは、インク吐出に熱を使わないHeat-Free Technologyを採用。電力消費が少なくなるとともに、ヘッド蓄熱による待ち時間が発生しないため、ファーストプリントが速く、プリンタの稼働時間と消費電力の効率化につながる。また、インク吐出だけで印刷が終了するシンプルな仕組みとなっており、定期交換部品が少なくメンテナンスも簡素化できる特性も持つ。
この結果、オフィスのレーザープリンタを、エプソンのインクジェットプリンタに置き替えるだけで消費電力量を47%以上も削減できるという試算が出ているのだ。大規模病院の事例では、535台のレーザープリンタを、489台のインクジェットプリンタに置きかえたところ、消費電力量が85%削減され、CO2排出量も85%削減できたという。
いまや、環境への対応は避けては通れない課題であり、今後、PrecisionCoreが注目を集める要因のひとつになりそうだ。
そして、インクや素材を選ばないPrecisionCoreだからこそ、様々な応用が期待されている。
たとえば、現時点でも、ラッピングバスなどの印刷にも、PrecisionCoreとエコソルベントインクが活用されているが、これを進化させていけば、将来は、クルマ1台が入るようなインクジェットプリンタが開発され、洗車機に入るようにして、クルマの筐体に自由にデザインを施すことができるようになるかもしれない。その日の気分にあわせて、クルマのデザインを変えることができるのが、マイクロピエゾ技術の進化によって実現される将来の姿といえるかもしれない。
マイクロピエゾは、30年の節目を迎えた。これまでにも、プリンティング環境を大きく変化させ、生活やビジネスにも大きな変化を及ぼしてきたマイクロピエゾ技術だが、その進化がもらたす影響は、これからの方が大きいかもしれない。