リコーによるPFUの子会社化によって、意外な形で注目を集めたのが、PFUが発売しているHappy Hacking Keyboard(HHKB)である。リコーによる記者会見でも、記者からHHKB事業の継続について質問が飛び、リコー コーポレート上席執行役員 リコーデジタルプロダクツビジネスユニットプレジデントの中田克典氏が「キーボード事業は大切にしていく。楽しみな事業のひとつである」と回答。リコー傘下となっても継続的に製品開発、販売する姿勢を明確にした。

  • Happy Hacking Keyboardの軌跡と新たな一歩

    PFUのHappy Hacking Keyboard(HHKB)

そのHHKBの第1号モデルとなるKB01が発売されたのは、1996年12月のことだ。2021年12月には、25周年の節目を迎えており、シリーズ累計出荷台数は、2021年5月に60万台を突破。熱狂的なファンが多い製品でもある。リコーによるPFU子会社化の動きを機に、その歴史を紐解いてみた。

PFUを傘下におさめるリコーの狙い

リコーの山下良則社長は、PFU子会社化の狙いとして、ワークフローのデジタル化、ITインフラの構築、現場のデジタル化の3つをあげている

「リコーは、デジタルサービスの会社への変貌を目指している。だが、完成させるために宿題となっていたのが、ドキュメントに依存しない業務プロセスに改善するためのソフトウェアの強化と、デジタルワークフローの価値提供領域を広げるためのエッジデバイスの強化であった。後者の宿題を、PFUが持つの世界ナンバーワンのスキャナー(ScanSnap)を、ポートフォリオに加えることで解決ができる」と話す。

リコーでは、PFUが持つスキャナーを中心としたドキュメントイメージング事業だけでなく、国内ITサービスを提供するインフラカスタマサービス事業、産業用コンピュータによるコンピュータプロダクト事業をいずれも継続。「世界トップシェアのスキャナーが、ドキュメントのデジタル化の入口になり、ワークフローのデジタル化と現場のデジタル化を促進できる」などと述べた。

  • リコーはPFUを傘下におさめることでデジタルサービスの強化を狙う

だが、4月28日に行われた記者会見においては、リコー側からの説明では、HHKB事業についてはなんら言及がなかった。

実際、PFUにおいても、HHKBは主力事業の位置づけではない。長年に渡り、HHKBの事業に携わってきたPFU 社長室 シニアディレクターの松本秀樹氏は、「常に王道ではなかった製品。事業部長がネガティブな判断をする際には、社長がポジティブに判断してくれた。毎年課題にあがりながらも、誰かが支えてくれた。ぎりぎりのところを通って、いままで生き延びてきた」と自虐的に語る。

PFUの買収時に、リコー幹部から説明がなくても当然ではあった。だが、熱烈なファンが多い製品であることは、リコーも十分承知している。

質疑応答で記者の質問に答える形で、リコー コーポレート上席執行役員 リコーデジタルプロダクツビジネスユニットプレジデントの中田克典氏が次のように説明した。

「HHKBには、熱烈なファンがいることを理解しており、私自身も購入し、実際に使ってみて、使いやすいと感じた。キーボード市場の年間成長率は8%程度であるが、PFUのキーボードは14%の成長率となっている。オフィス以外にも、在宅勤務をしているビジネスパーソンにも利用されており、これは、リコーにとっても重要なエントリーポイントになる。PFUは、世界中でキーボード事業を展開しようと考えている。リコーはそこにも貢献できる。キーボード事業は大切にしていく。これも楽しみな事業である」

質問に答える形でのコメントではあったものの、リコーの中田プレジデント自身が、HHKBを自ら購入し、それを使ってみたことや、キーボード市場の成長性についても調査。リコーの経営陣が、HHKB事業に対しても高い関心を持っていることが裏付けられたともいえる。

このコメントは、複数のニュースメディアが報道。それらの記事には、HHKBの事業継続を歓迎する読者の書き込みが多かった。

1990年代、変化する時代が求めたHHKBの誕生

HHKBは、キーボードにこだわる開発者や研究者、エンドユーザーなどに支持される製品として、長年の実績を持つ。

製品化の発端は、東京大学の和田英一名誉教授が提唱した「Alephキーボード」である。

1990年代前半、パソコンの広がりとともに、様々なレイアウトのキーボードが生まれており、「パソコンが換わるとキー配列も換わる」という課題が生じるようになっていた。

それは、コンピュータ研究者や開発者にとって、パソコンが変わるたびに異なる配列のキーボードを使わざるを得ないという苦労を強いることになり、プログラマーにとっては不要と感じるファンクションキーが増えたり、必要な位置に必要なキーがなかったりということもストレスにつながっていた。とくにUNIXワークステーションを利用する研究者や、コードだけが打てればいいと考えていた開発者にとっては、ビジネス用途に適したキーが増加したり、それによって大型化するパソコン用キーボードを、ワークステーションでも利用されることが増え、キーボードに対する不満が高まっていた。

Alephキーボードは、ASCII配列(英語配列)を基本にしながら、コンピュータのプロフェッショナルが打鍵しやすいように、いくつかのキーの配置を最適化し、最もタイピングしやすいキーボード配列を考案。それがHHKBの原点となっている。

  • 2019年12月のPFU記者会見から、写真中央がHHKBの生みの親である和田英一名誉教授

PFUが発行するPFU technical reviewに、和田名誉教授による「けん盤配列にも大いなる関心を」と題したキーボードに関する寄稿記事が掲載され、それに感銘を受けたPFUの有志たちが、上司の許可を得て試作品の開発に着手したのがはじまりだ。ASCII配列を基本とすること、十分な深さのストロークを持つこと、テンキーやファンクションキーなどは不要とし、持ち運びに適するくらい小さく軽く、十分な強度を保つことを目指して開発が進められた。開発チームは、既存のキーボードをカットして、組み換えるという作業を行い、和田名誉教授と意見交換をしながら、約半年間に渡り、試行錯誤を繰り返していった。ちなみに原型となるキーボードが完成した時点では、まだ製品化の話は決まっていなかったという。

キーボード配列は、当初のType4ベースのAlphaキーボードから、Type3ベースのAlephキーボードに変更。さらに、最終的には現在のHHKBの配列に落ち着いたという。

  • Alephキーボードのキー配列を基本に、製品として現実的な配列を目指し試行錯誤。写真は1995年10月に作成したモックアップで、発売までにさらなる変更が加えられた (出典: HHKB HISTORY ~HHKBの軌跡~)

開発当初は、Windowsパソコンでの利用は想定せず、むしろワークステーションであるサン・マイクロシステムズのUNIXワークステーション「SPARC station」向けに開発し、限られたプロフェッショナルのためのキーボードに位置づけていた。それを象徴するように、パソコンで採用されているキー配列は、「A」キーの左横に「CAPS」キーが配置されるが、HHKBでは「Ctrl」キーが配置されている。これはSPARC station向けに開発したという経緯によるものだという。

配列の検討では、和田名誉教授の強いこだわりが反映され、Macに対応するために工夫したキー配列を見たときには、「Macは対象機種から外しても仕方がない」と開発チームに送ったメールが残されているというほどだ。

だが、メーカーであるPFUの立場からすれば、製品化するには一定の数が売れることが重要であり、ワークステーション、Windows、Macへの対応を前提として開発を進めていった。

当時、PFU自らもSPARC station互換機を開発しており、SPARC station向けキーボードの開発ではノウハウを蓄積していた。また、IBM PC互換機の開発ノウハウがあったこと、発売1年後に行われたHHKBのMac対応でも、米国出張のたびにMacを購入してくるマニアックなユーザーがいたことなど、開発者が持つ知見が活かされたという。

HHKBは、開発の途中から、パソコンでも利用できるようにPS/2インターフェースを搭載したのだが、その結果、初期ロットは、あっという間に完売。「プロフェッシナルのためのキーボード」を求めるユーザーが、Windows環境でも想定以上に多かったことを裏づけるものとなった。

ただ、当時のPFUには、一般ユーザーへの販売ルートがなく、しかも、PFU研究所で開発した商品だったこともあり、販売体制の構築に苦慮。CE部門を通じて消耗品販売の仕組みを活用したり、PFUダイレクトの原型となる直販の仕組みを新たに用意して、パソコン通信のニフティサーブなどを通じて販売。秋葉原の一部パソコン専門店に直接持ち込んで展示販売をしてもらうという苦労もあったという。

発売後には、もうひとつの課題が生まれた。それは、「Happy Hacking」という製品名であった。タイピングが熟達するほど、プログラミングなどが快適になり、楽しく行うことができるという意味を込めて採用した製品名だが、商標登録の際に、特許庁から「公序良俗に反する」という理由で、登録の拒絶通知が来てしまったのだ。ハッキングやハッカーという言葉の正しい意味が、まだ一般に広まっていない時期であり、それが拒絶の背景にあった。PFUでは、スティーブン・レビー氏の著書「ハッカーズ」の文章を引用し、「本来、Hackingという言葉には、悪い意味はない」と反論書を提出。その結果、無事に受理され、1998年7月に商標登録が行われた。ちなみに、Happy Hackingは、世界的に著名な開発者の一人であるリチャード・ストールマン氏が用いていた言葉であり、PFUは、同氏が来日した際に、HHKBをプレゼントした経緯がある。

キーボードとは、カウボーイの鞍のようなもの

HHKBを購入した多くのユーザーたちは、和田名誉教授が語った次の言葉に大きな共感を得ていたようだ。

「アメリカ西部のカウボーイたちは、馬が死ぬと馬はそこに残していくが、どんなに砂漠を歩こうとも、鞍は自分で担いで往く。馬は消耗品であり、鞍は自分の体に馴染んだインターフェースだからだ。いまやパソコンは消耗品であり、キーボードは大切な、生涯使えるインターフェースであることを忘れてはいけない」

カウボーイは生涯、鞍を持ち歩くが、プログラマーは生涯、HHKBを持ち歩くという使い方を提案してみせたのだ。

  • キーボードとは、カウボーイにとっての鞍のようなもの

ちなみに、2021年12月10日にオンラインで行われた「HHKB ユーザーミートアップvol.5」では、90歳を迎えた和田名誉教授が、「人生100年時代のHHKB」と題してビデオメッセージを寄せ、「キーボードを1日1万回打つとすれば、HHKBが示している3,000万回以上の耐久性に達するまで10年かかる。しかし、ひとつのキーだけを打つわけではない。よく打つキーがHHKBの60個のキーのうち、10個だとすれば、1日にそのキーを打つ回数は1,000回となり、HHKBの寿命は100年にある。もし、よく打つキーが20個になれば、寿命は200年になる。人生を100歳として、HHKBの寿命は、それを楽々超えてしまう」と、HHKBが名実ともに、生涯使えるキーボードであることを示したみせた。

1996年12月に、2万9,800円という価格で発売されたHHKBは、1999年に金型の償却が終了したのにあわせて、1万9,800円へと値下げ。1999年には米国で7,800円という低価格のHHKB Liteを発売したり、PDAであるPalm(パーム)に対応したHHKB Cradleを発売したり、カーソルキーを配置したHHKB Lite2を投入したりといったように、徐々にラインアップを広げていった。ちなみに、パーム対応は、HHKBにとって黒歴史と称されるが、それは、「HHKB Cradleを発売した直後に、パームのクレードルの仕様が変更され、大量に売れ残り、数1,000万円分を廃却することなった」(PFUの社長室 シニアディレクターの松本秀樹氏)という苦い経験があるからだ。

2003年5月には、キースイッチに静電容量無接点方式を採用した最上位モデル「HHKB Professional」を発売した。背景にあったのは、ラインアップの拡大を目指すとともに、それまでHHKBを生産していた富士通コンポーネント(旧富士通高見澤コンポーネント)がキーボード生産から撤退する決定をしたこと、主力製品であったKB02に使用していたマイコンの生産が終了するというタイミングに重なったことも理由だった。「このままでは馬の鞍が無くなってしまう」(当時開発を担当していた八幡勇一氏)と危機感をいだいた開発チームは、金融端末向けなどにキーボードを生産していた東プレに生産を打診。これにより、HHKBの生産が継続されることになった。同じく2003年には無刻印モデルを発売し、2004年にはかな無刻印モデルを初めて投入。いずれも大きな話題を集めた。

  • 2003年5月、静電容量無接点方式を採用した「HHKB Professional」を発売。2005年2月には「HHKB Professional 墨モデル」が発売された。写真はHHKB Professionalの通常モデルと無刻印モデル、それぞれの墨モデル

発売10周年を迎えた2006年には漆塗りのキーボードを発売。価格は52万5,000円と、世界一価格が高いキーボードとしてギネスに認定された。こうした話題づくりにも長けたのがHHKBの特徴であった。ちなみに世界一高価な漆塗りキーボードは約10台の販売実績があったという。

  • 漆塗りの「HHKB Professional HG JAPAN」。無刻印モデルのトップ機種として、全キーが「漆塗り」の特別仕様。輪島塗の熟練職人が手作業により10回もの塗りを繰り返して生んだ深い赤だという

さらに、2019年には、部材などをすべて見直して、HHKBの集大成と位置づける「HHKB Professional HYBRID Type-S」を中心にラインアップを刷新。2021年5月には累計60万台を突破した。なお、2019年には、長期間に渡って支持された製品などに対して授与される日本デザイン振興会主催のグッドデザイン・ロングライフデザイン賞を受賞。発売以来の「合理的なキー配列、コンパクトサイズ、極上のキータッチ」を継承している。

現在、PFUでは、HHKBのラインアップとして、HYBRID Type-S、HYBRID、Classicの3つのグレードを用意。英語配列、日本語配列、英語配列無刻印を品揃えし、墨と白の2色を用意している。

  • 2019年12月に登場した「HHKB Professional HYBRID Type-S」

PFUによると、2021年の販売実績は、HYBRID Type-Sが84%、HYBRIDが12%、Classicが4%と、ハイエンドモデルが圧倒的に売れているのが特徴だ。色別では、墨が62%、白が38%となっている。前年よりも白が6ポイント増加している。

また、日本語配列が47%で、前年より4ポイント向上。英語配列は44%。無刻印は3ポイント減少して9%になっている。

年齢別では、20代が17%を占め、前年の8%から大幅に増加。また、30代も23%となり、前年の17%から増加。この1年で若年層の利用が増加しているという。また、40代の構成比は29%、50代は23%となっている。もともとは40代、50代の購入が多かったが、ここにきて若年層の購入が増加しているのは大きな変化であり、同社では、「若い世代の利用が増加していることが、日本語配列の販売が増加していることにつながっているのではないか」と分析している。

また、女性ユーザーは3.5%と少ないが、前年の2.9%から増加しているという。国内では83%、海外では17%の構成比だ。

リコーの子会社となったことで、まずはPFUの主力製品であるスキャナーにおけるシナジー効果が注目を集めているが、事業継続を明らかにしたHHKBでは、果たしてどんな相乗効果が生まれるのか。異例の仕掛けを続けてきたHHKBだけに、想定外の相乗効果も期待したい。