NECパソコンの発端となるのが、1976年8月に発売した「TK-80」である。

型番の「TK」は、トレーニングキットの意味で、マイコン(マイクロコンピュータ)の潜在的な需要を掘り起こすことを目的としたトレーニング用組立キットとして商品化したものだった。そのままでは動作せず、ハンダを使って組み立てる必要があった。

この頃、NECは、国産メーカーとして、いち早く、4ビット、8ビット、16ビットのマイコン製品を揃えていたものの、それを採用する企業がまだ少なく、応用分野はキャッシュレジスターやミシン、自動編み機などに限定されていた。それにも関わらず、設備投資が進み、マイコンの生産量を一気に拡大する計画が打ち出されており、それを消費するための新たな市場開拓が求められていたなかでの一手であった。

  • NECパソコンの発端となる、1976年発売のマイコン「TK-80」

    NECパソコンの発端となる、1976年発売のマイコン「TK-80」

日本のパソコン産業の生みの親

プロジェクトを担当したのは、のちに「日本のパソコン産業の生みの親」とも言われる渡邊和也氏だ。「マイコンをどう使ったらいいのか、ということを知っている人がいない時代。そこで、全国にマイコン教室を作ってみたものの、現物がないために、テキストと黒板で教えても、生徒がなかなか理解できない。だが、実際に機器を活用したら、30分で理解してもらえた。そこで教材を作らなくてはならないと考え、そのために、入出力機能を持ったワンボードマイコンの開発をスタートした」というのがきっかけだ。

  • TK-80を手に持つ渡邊和也氏

マイコンの販売が目的であったことからもわかるように、商品化を担当したのは、デバイス部門。もともと部品だけを販売してきた部門が、トレーニングキットを「完成品」として販売することに対して、社内にはタブー視する声があったため、同事業を統括していた大内淳義取締役(のちに会長)のアイデアによって、部品と位置づける「組立キット」として売ることにしたのだ。

CPUには、NECがインテルのセカンドソースによって開発したμPD8080A(クロック周波数2.048MHz)を搭載。ROMは768バイト、RAMは512バイトという仕様だ。ちなみに、TK-80の「80」は、μPD8080Aの型番が語源だ。8桁の7セグメントLED表示素子に、アドレスとデータを16進数で表示。キーは0~9およびA~Fの16個の16進数キーと、プログラミングやデバッグなどに使いやすい9つのファンクションキーで構成した。CPUやメモリ、キー、LED、プリント基板などは、関連部門の協力を得て、すべてNEC製だった。

実は、NECでは、TK-80の発売3カ月前となる1974年5月に、神奈川県横須賀市のNTT中央研究所向けに10セットの教育用試作機を開発し、このうち5セットを納めている。新入社員向けの教育用ツールとしての利用を想定したもので、これがNECにとって、最初の出荷といえるかもしれない。

  • NTT中央研究所に納入された試作機。TK-80の原型となる製品だ

当時、誰もが通ったラジオ会館の「Bit-INN」

1974年8月に、正式に発売となったTK-80の販売価格は8万8500円。初期ロットとして2000台を生産したが、発売当初は苦戦した。当時のNECには、コンシューマ向け商品を販売するルートがなく、一般販売のノウハウもない状態であったのだから、それは当然のことだった。

そこで、東京・秋葉原の駅前にあるラジオ会館7階に、NECマイクロコンピュータサービスルームとして「Bit-INN」を開設することにした。

  • 東京・秋葉原のラジオ会館7階のBit-INN

NECの半導体販売特約店である日本電子販売(現PCテクノロジー)に委託し、オープンしたものだ。大内氏と渡邊氏が同社を訪れ、「3坪でいいからスペースを提供して欲しい」と相談。同社の創業者である野口重次氏が、「3坪ではNECの看板が泣く。20坪でも、30坪でも使ってやってみろ」と逆提案し、約30坪のスペースを使って、1976年9月にオープンしたものだ。NECの看板を掲げたものの、社内ではBit-INNを運営するための予算を獲得できず、日本電子販売との取引条件の見直しなどによって対応することにしたというエピソードも残る。

当初は、メーカーの技術者の来店を想定していたが、当時として珍しかったマイコンに直接触れることができる場であることを知った社会人や大学生、高校生も数多く来場。ソフトバンクグループの創業者である孫正義氏も、学生時代にBit-INNに通っていた若者の一人だ。多い日には1日に3000人もの人が押し寄せ、NECの担当社員も、人が多く集まる土日には、休日返上でBit-INNで対応にあたるという状況だった。

  • 1977年に発行された大内淳義氏の著書「マイコン入門」は、ベストセラーになる人気ぶりたった

こうした動きを捉えて、NECでは、1976年10月に、アマチュアを対象にしたNECマイクロコンピュータクラブを発足。たちまち2万人を超す入会者があり、マイコン愛好者の裾野を一気に広げた。また、1978年3月には、NECマイコンショップの第1号店を広島に開店。その後、全国にNECマイコンショップを展開することになった。さらに、Bit-INNも、東京に続き、横浜、名古屋、大阪に展開していった。

  • かつてラジオ会館7階に設置されていた「パーソナルコンピュータ発祥の地」のプレート

TK-80は、発売からわずか2年間で、約6万6000台を販売する大ヒットとなり、NECはマイコン時代の主役に一気に躍り出たのである。

常識破りが切り拓いていった日本パソコン市場

TK-80では、それまでの常識を覆す取り組みがいくつも行われた。

そのなかでも、特筆されるのは、Bit-INNなどを通じて、技術情報を積極的に公開したことだ。当時のハードウェアメーカーの常識は、技術情報はメーカーにとって根幹部分であり、情報が流出すれば、他社に真似される温床になりかねないと判断されていた。だが、TK-80では、配線図や使用部品などの諸元についても公開し、これを見た企業がTK-80向けの周辺機器やソフトウェアを開発。それが結果として、TK-80の販売を加速することになるという好循環を生むことになったのだ。

  • サードパーティーが開発したTK-80用プログラム集。最初のサードパーティー製ソフトウェアだ

  • TK-80用のプログラム集はカセットテープで提供されていた

TK-80の販売が軌道に乗り始めたころ、NEC社内の別部門の社員が、TK-80のカラー写真が掲載されたエレクトロニクス専門誌に広告を見て、「これは、あなたたちが出したものなのか」と渡邊氏に聞きにやってきた。広告を出した覚えがない渡邊氏は、それを否定したところ、今度は、「ほかの会社が、TK-80の宣伝をするはずはない」と言い出した。その広告を見ると、TK-80向け電源装置を開発したサードパーティーが出稿したものであることがわかった。TK-80は、本体とは別に電源装置を購入しなくてはならず、そうしたニーズにあわせて開発した製品であり、その広告にTK-80の写真が大きく掲載されていたのだ。社員は、「TK-80の写真を無断で掲載してもいいのか。先方にクレームをつけた方がいいのではないか」と提案したが、渡邊氏はそれも否定した。

「お礼こそ言え、クレームなんてありえない」。渡邊氏はそう答えて、サードパーティー製品の広がりを支持したのだ。

  • 当時のTK-80の広告。価格が8万9500円となっているが、ここには郵送料1000円が含まれている

これが、NECのパソコン事業における最初のサードパーティー製品となった。

その後、TK-80向けのサードパーティー製品が各社から登場。この手法は、その後のPC-8000シリーズやPC-9800シリーズでも踏襲され、それが、NECを国内パソコン市場でトップシェアに押し上げる原動力となった。当時のパソコンは、メーカーごとに対応するソフトウェアや周辺機器が異なっており、これらの製品の品揃えが増えることは、ユーザーの利便性と、用途の広がりにつながり、シェア拡大という観点からも重要な要素だったのだ。

砂漠を駆けるビル・ゲイツのポルシェ、そして「PC-8001」の産声

TK-80の成功を受けて、NECは次のステップとして、パソコンの開発に着手した。

1978年夏頃から、コードネーム「PCX-1」と呼ぶPCを、デバイス部門が開発し始めたのだ。

1977年には、精工舎やソード、日立製作所、シャープがパソコンを発売。さらに、海外からはAppleIIや、コモドールのPET-2001、タンディラジオシャックのTRS-80といった御三家と呼ばれたPCがすでに日本に輸入されていた。それに比べるとNECのパソコン市場への参入は遅れていたといえる。

だが、NECに焦りはなかった。TK-80で培ったサードパーティーの存在や、全国に広がる販売網を活用することで、NECのパソコン事業を加速できると考えていたからだ。

開発が遅れていた理由も明確だった。それまでのトレーニングキットでなく、コンピュータというかたちで商品化するのに際して、より多くのユーザーの声を取り入れようとしたこと、FDD(フロッピーディスクドライブ)ユニットやディスプレイも同時並行で開発し、カラー化にも取り組み、満を持して、NECならではのパソコンの投入を目指したからだ。

PC-8001は、1979年5月9日に、名称は未定としながらもニュースリリースで発表。5月16日から開催された第3回マイクロコンピュータショウには、試作機を初めて展示して話題となった。それを受けて、同年9月には、大きな注目が集まるなか、PC-8001の販売を開始したのだ。

  • NECの最初のパソコン「PC-8001」

ちなみに、NECが発表したニュースリリースは、「性能、経済性にすぐれたパーソナルコンピュータの発売について」というタイトルになっており、「CRTディスプレイ上の文字表示能力、カラー表示能力およびROMの容量等において、世界の従来機種をしのぐのをはじめ、従来機種が個々に特長としていた機能をすべて備えるなど、数多くの特長を持った本格的なパーソナルコンピュータであります」と記述。「新製品は、従来のコンピュータ学習、ホビー用としてはもとより、パーソナル規模の業務用として活用されることを大いに期待している」とも書かれている。NECが、新たに進出するパーソナルコンピュータの事業に、大きな期待と自信を持っていることが伺われる。また、販売開始を8月としており、当初計画よりも1カ月遅れでの発売となったことがわかる。

  • NECが1979年5月9日に発表したPC-8001のニュースリリース(1ページ目)

  • PC-8001のニュースリリース(2ページ目)

  • PC-8001のニュースリリース(3ページ目)

  • PC-8001のニュースリリース(4ページ目,表1)

  • PC-8001のニュースリリース(5ページ目,図1)

NECは、PC-8001においては、米マイクロソフトのBASICを採用することを決定した。

それは、パソコン事業においては、デファクトスタンダードを採用することが重要であると考えていたからだ。

マイクロソフトのBASICは、米国においては、すでに複数のPCメーカーが採用していた。日本では、1978年からアスキーがマイクロソフトの国内販売代理店契約を締結しており、ちょうど日本のPCメーカーに売り込みをかけようとしていたところだった。

当時、アスキーの副社長を務めていた西和彦氏から、マイクロソフトのBASICの採用を勧められた渡邊氏は、実際に見てみたいと考えたが、当時のマイクロソフトの実態は、社員数12人のベンチャー企業。大手企業であるNECの部長が、未知のベンチャー企業を訪問するためだけに、米国へ出張するという申請が通るはずはなかった。そこで、渡邊氏は、1978年11月に、米ロサンゼルスで開催されたWCCF(ウェストコーストコンピュータフェア)の視察を早々に切り上げ、創業直後のマイクロソフトの本社があったニューメキシコ州アルバカーキーに、会社には内緒で移動。西氏からの紹介状を携えて、単身で空港に降り立ったのだ。

空港を出ると、田舎の空港には場違いともいえる赤いポルシェが1台止まっていた。そのドアが開いて、若き日のビル・ゲイツ氏が、渡邊氏に「ハイ!」と声をかけてきたという。

「こんな田舎の空港に日本人が降りるはずがない。だから、面識がなくても、すぐにわかった」と、ゲイツ氏は笑って、渡邊氏を迎えたという。

スピード好きで知られるゲイツ氏の運転で、砂漠のなかを赤いポルシェは疾走し、小さな建物の本社に到着。2階の会議室で、約2時間に渡って話をしたという。

このとき、渡邊氏は、ゲイツ氏が語るデファクトスタンダードの重要性で意気投合し、さらに、米国において多くのPCに使われ、ユーザーの意見が多く反映されたBASICを見て、世界で最もユーザーフレンドリーなものであると判断した。そして、NEC向けに開発する対価が驚くほど安かったことも、マイクロソフトのBASICを採用した理由のひとつとなった。NEC社内では、独自のBASICの開発が進んでいたが、それでもデファクトスタンダードのBASICを、NECは選択することにしたのだ。

PC-8001の価格は16万8000円。CPUには、Z80互換のμPD780C-1(4MHz)を採用。ROMは24KB、RAMは16KBを搭載し、オプションとしてCRTディスプレイ、プリンタ、カセットテープレコーダー、フロッピーディスクドライブ、モデムなどが用意された。

当初の販売目標は、月2000台だったが、発売と同時に、それをはるかに上回る注文が殺到し、発売から3年間で約25万台を販売する大ヒット製品となった。

「ホームエレクトロニクス」という新しい言葉

PC-8001の成功は、NECの経営トップに対しても、パソコンに対する認識を変えることになった。当時の小林宏治会長は、大内氏に、「紺屋の白袴にならないように、まずトップからパソコンを勉強しようじゃないか」と提案。こうして始まったのが、全役員と事業部長が参加する「社内パソコン勉強会」だった。第1回目は、1980年12月6日に行われ、おぼつかない手つきでキーボードを打つ小林会長らの姿は広く報道され、NECがパソコン事業に本腰を入れていることを世間にアピールする効果があった。

NECでは、PC-8001の成功を受けて、1981年には、家電事業を担当していた新日本電気(のちの日本電気ホームエレクトロニクス)がPC-6000シリーズを発売。さらに、デバイス部門では同年にPC-8800シリーズを投入することによって、8ビットパソコン事業をさらに拡大。このとき、NECでは、パソコンが一般家庭に入りはじめ、情報指向の「新家電」の道が開けてきたことを捉えて、「C&Cを各家庭に」のメッセージを打ち出し、家電事業に対しては「ホームエレクトロニクス」という新たな言葉を使いはじめることにした。その重要な製品のひとつにパソコンを位置づけたのである。

  • 新日本電気が発売したホビーパソコン「PC-6001」。パピコンという愛称がつけられた

1982年度には、NECの主力商品であったカラーテレビの売上高をパソコンが上回る規模に成長した。そうした勢いのなか、1982年10月には、のちに「国民機」とも称されることになる16ビットパソコンのPC-9800シリーズがいよいよ誕生することになるのだ。