第2の創業、世界をリードした「C&C」宣言
NECの「中興の祖」と呼ばれるのが、小林宏治氏である。
NECにはもともと社長という役職がなく、創業者の岩垂邦彦氏をはじめ、4代目までは専務取締役が経営トップであり、4代目の梶井剛氏が、在任中に専務取締役から、初めて社長に就任している。梶井氏を含めて、それ以降の社長は住友出身が続き、7代目の経営トップとなった小林氏は、NEC初の生え抜き社長でもあった。
小林宏治氏は、1907年にNECに入社。戦前には無装荷ケーブルの開発を担当するなど、主に通信事業に携わり、戦後は玉川向製造所長を務めた経験を持つ。
技術や生産分野に精通していると同時に、海外市場の開拓や外国企業との提携などの面でも活躍し、国際的視野も広かった人物だ。
1965年「世界第一級の会社に」「世界第一級の製品を」
東京オリンピックの閉幕直後の1964年11月30日に社長に就任した小林氏は、それからわずか約1カ月後となる1965年1月の年頭挨拶で、「世界の第一級の会社に」、「世界第一級の製品を」をNECのスローガンに掲げ、「経営トップ構造の改革」、「事業部制の徹底」、「ZD運動の展開」の3つで構成する「経営刷新プログラム」を打ち出した。
「経営トップ構造の改革」では、「点から面へ」と表現し、それまでの社長という「点」にすべての権限が集中し、直轄事項が40以上にのぼっていた体制を刷新。社長を中心とする「最高経営グループ」を構成し、常務以上の役員を社長の分身に位置づけることで、意思決定の遅れと、経営の硬直化の打破に取り組んだ。
「事業部制の徹底」では、1961年に導入した事業部制の実行に課題があると判断。とくに、工場と販売の一元化が行われず、両部門の協力関係が弱かった点にメスを入れ、「営業機能を持たない事業部は事業部に非ず」という基本方針を徹底し、作ったモノは責任を持って売り、さらに、販売を通じてキャッチした顧客のニーズを製造にストレートにフィードバックする体制構築を進め、技術、製造、営業の三位一体の実現を目指した。
そして、3つめの「ZD運動の展開」は、Zero Defects(無欠点)の意味を持ち、企業活動における欠点を無くす活動を目指した。
工場などで導入していたQCサークル活動と一本化し、従業員1人ひとりの注意と工夫によって、仕事上の誤りの原因を除去。はじめから正しい仕事をすることによって、品質と原価と納期に対して、効果的に仕事を進める手法を確立することを目指した。また、ZD活動は、単に製品の無欠点を目指すだけでなく、NECのすべて社員が活動に参加する機会をつくり、各組織において、社員を小集団活動に動員するという新しいアプローチへと発展していったという。
ZD運動は、小林氏が社長就任直前の1964年夏に、米ヒューズエアクラフトを訪れたときに知った取り組みだという。NECでもこの活動を導入したいと考え、社長就任とともに採用。その後、日本能率協会が、NECが取り組んだZD運動を産業界全体に普及させ、全国的に広がっていった。
一方、小林氏は、工場の建設計画において、地方分散立地構想を打ち出し、「地方日電」と呼ばれる展開も加速していった。地方への展開は、工場用地と要員の確保にメリットがあることに加えて、NECが取り扱う製品の多くが小型、軽量であるため、地方からの輸送上の問題に対処できること、NECの社業である電気通信は、距離の隔絶を克服する最大の手段であり、自ら行動によってそれを証明する役割も果たしたいと考えたことも計画立案の背景となった。
地方日電は、NECが100%出資することを原則とし、地域特性や立地条件に応じて展開。社員規模が1500人程度のA型工場、1000人規模のB型工場、500人規模のC型工場に分類し、社名には日本電気を冠するとともに、A型工場には地域名を、B型、C型工場には県名をつけることにした。
1969年には、地方日電の第一号として、鹿児島県出水市に鹿児島日本電気を設立。本社から最も遠方の地を選択したのは、ここで成功を収めれば、後続の工場もうまくいくだろうという理由からだった。NECでは、1965年からの約10年間で、11社の地方日電を設立した。
小林氏の社長在任中に、NECは、通信、コンピュータ、半導体を事業の三本柱に位置づけた。そして、それぞれの事業を業界トップクラスのポジションにまで育て上げた手腕は大きく評価されている。また、1976年には社長の座を譲り、会長に就任。社長とともに役割を分担して経営にあたるという新たな布陣を整えた。1988年には名誉会長に就いている。
NECが迎えた第2の創業、「C&C」の誕生
小林氏が会長に就任した翌年となる1977年10月10日から15日まで、米アトランタで開催された米国初の大規模総合通信展「インテルコム’77」は、NECの歴史にとって、重要な節目となった。
開催初日の10月10日。世界中の政府関係者、電話会社、そして主要通信機メーカーが参加するなか、「Shaping a Communications Industry to Meet Ever-Changing Needs of Society(変化する社会ニーズへの通信企業の対応)」と題し、基調講演を行った小林氏は、新たなコンセプトとして、「C&C(The Integration of Computers & Communications)」を提唱してみせた。
30分間という講演時間の冒頭に小林氏は、「今日、主要先進諸国ではコミュニケーション技術とコンピュータ技術が融合を始めており、『コンピュータ通信』という新しい概念が定着しようとしている」と切り出し、「21世紀初めには、いつでも、どこでも、誰とでも、お互いに顔を見ながら話ができるようになる。そのときは、すべての技術、つまり通信、コンピュータおよびテレビジョンは、このようなニーズに対して統合される。そのためには、発展途上国がそのような世界通信システムに参加できるように、これらの国々を援助することが重要になる」と述べた。
このときには、「C&C (Computers and Communications)」として、確立された概念が明確に示されたわけではなかった。だが、小林氏の頭のなかには、通信技術とコンピュータ技術の融合によって、情報通信産業が発展するというビジョンが完成しており、そのビジョンが、C&Cという言葉に集約され、その後、情報化社会とそれを支える技術的基盤という文明論的な色彩を持つものへと熟成していくことになる。
もともと「通信とコンピュータの融合」という概念は、「インテルコム’77」の講演の約10年前から、小林氏の脳裏に浮かんでは消え、消えては浮かんでいたものだという。社長就任前から、NECのCI(コーポレートアイデンティティ)を考える立場にあり、通信機器とコンピュータの両方を手がけるNECの将来を見据えれば、自然の着想だったのかもしれない。
C&C構想は、「インテルコム’77」で発表されたことが知られているが、ここには、あまり知られていないエピソードがある。
実は、C&Cの考え方を初めて外部に公開したのは、「インテルコム’77」での基調講演の約2年前となる1975年9月に、スイス・ジュネーブで開催された世界電気通信会議の講演だったのだ。
小林氏は、「C&C」という言葉こそは使わなかったものの、「電話網の整備が一巡した先進諸国でのもうひとつの懸案は、通信とコンピュータのドッキングがもたらす効用の実現である」と提言。「このような新機軸の誕生の鍵は、マイクロエレクトロニクスにある」という見解を示したのだ。
さらに、この動きを加速するような出来事が1976年に起きた。カナダの通信機メーカーであるノーザンテレコムが、デジタル電子交換機を発表したのだ。通信の中核である電子交換機にデジタル技術が初めて採用されたことで、電気通信とコンピュータの技術的融合の第一歩が記されたともいえ、これをきっかけに、米国の交換機市場にはデジタル化の波が一気に押し寄せることになったのである。
NECもデジタル電子交換機の開発を急ぎ、1977年夏までに製品化に目途をつけた。また、同時期にNECのコンピュータ部門では、コンピュータと各種端末機器を通信回線で結び、情報を分散処理するシステムアーキテクチャの開発を進め、その成果として、1976年には「DINA(Distributed Information processing Network Architecture)」を発表している。
「インテルコム’77」の講演依頼が小林氏に届いたのは、1977年春のことだった。業界全体の大きな動きが始まり、NECの取り組みが進展するなかで、C&C構想の輪郭が少しずつ見え始めた小林氏は、この講演がNECにとって、新機軸を打ち出すには絶好の場になると考えた。
ノーザンテレコムのデジタル交換機の発表後、NECのクロスバ交換機は北米市場では売れなくなり、もう一方のコンピュータ分野においても、NECは苦戦を強いられている状況にあった。そうした局面を打開するためにも、かねてより温めていた「コンピュータと通信の融合」という構想をアピールする必要に迫られていたという事情も見逃せなかっただろう。
NECは、「インテルコム’77」での基調講演当日には、同社初のデジタル電子交換機「NEAX61」を米ニューヨークで発表。また、インテルコムの会場では、展示機器と日本の中央研究所のACOSシステム700を衛星通信回線で結び、C&C構想を具現化する大規模なデモンストレーションを行ない、これらの出来事も大きな話題を集めた。
C&C構想の発表は、NECが新たな時代をリードしていくという宣言でもあり、それにあわせて技術や製品を発表するという戦略的要素を持ったものでもあったのだ。
コンピュータ、半導体、通信が融合する「C&C元年」へ
「インテルコム’77」の講演で打ち出されたC&Cであったが、その概念を、どのように体系化し、展開していくかは、そこからの課題だった。
C&C宣言から2カ月後の1977年12月、小林氏は、10数人の役員や事業部長級の幹部を招集し、C&Cに関する問題提起を行なった。
小林氏は、「コンピュータ分野では情報の分散処理という概念が生まれ、そこには通信ネットワークが介在してくる。一方で、通信の側ではコンピュータと同質のデジタル化が進み、両者は結合しやすくなる。両者の間に生まれてくるインタフェースが、どのようなものかはまだ不明だが、そこに新しい技術のシーズがあるはずだ。意見を出し合い、C&Cの方向づけをしたい」と語り、この会合を「C&Cオリエンテーション会議」と命名。その活動は、1978年6月に設置した「C&C委員会」に引き継がれた。同委員会の委員長には、のちに社長を務める関本忠弘氏が就任した。また、1980年には、C&C冠した初の組織としてC&Cシステム本部を設置し、コンピュータと通信の融合に向けて、事業部門を横断したマーケティング活動を展開することになった。
小林氏が、日本において、初めてC&Cの概念を明確に説明したのは、1978年5月に、東京で開催された日本電子工業振興協会の創立20周年記念大会の基調講演だった。そこでは、「C&Cチャート」と呼ばれる図を初めて公開した。
「C&Cチャート」は、コンピュータ、半導体、通信の3本の線が描かれ、それぞれがシステム化とデジタル化の度合いを高めていき、やがてC&Cとして融合するというイメージを図式化している。インターネットやPC、スマートフォンを日常的に利用するいまの時代は、まさにC&Cチャートで描かれた世界そのものである。インターネットや携帯電話の姿もなく、PCもようやく海外で登場し始めたという時代に打ち出された画期的なビジョンだったといえる。
NECは、1979年に創立80周年を迎えた。
これにあわせて、この年を「C&C元年」と位置づけ、より多くの人にC&Cを知ってもらうための活動を開始した。
なかでも、1979年の元日に、朝日新聞に掲載した別刷り全15段4ページの大型広告は大きな反響を呼んだ。
「C&C元年」を謳い、「コンピュータ・コミュニケーション社会はよき友人社会」というメッセージを打ち出した広告では、一般の人たちに対してもC&Cの恩恵が広がることを示してみせた。さらに、この広告が注目を集めたのは、扉となる1ページ目に、鉄腕アトムをはじめとする手塚治虫氏の代表作品の人気キャラクターが集結。コンピュータ技術と通信技術が融合することで実現する未来の姿を描いていた点だ。
NECでは、この広告をきっかけに、C&Cに関するプロモーション活動を積極化。同年7月には、「地球をぐるっとコミュニケーション」と題して、全国32紙に全15段2ページ、あるいは全15段1ページの広告を掲載。さらに、主要雑誌7誌にも2ページの広告を掲載するなど、これまでにない訴求活動を行った。こうした活動は、それまで比較的地味な存在だったNECの知名度を高めるきっかけになった。
また、C&Cの浸透とともに、海外においても、NECの名前が知れ渡るようになり、1983年には、英文社名を、Nippon Electric Co., Ltd.から、NEC Corporationに変更した。
また、NECは、C&Cを社会貢献分野にも展開。1985年にはC&C振興財団を設置し、C&C分野における功労者の顕彰と、研究活動に対する助成を通して、世界中のC&C関連技術の進歩に貢献することを目指した。
NECを「世界のNEC」へと飛躍させた画期的なコンセプトが「C&C」である。
そして、NECは、C&C宣言のタイミングを、「第2の創業」と位置づけている。
1899年の創業によって、通信技術で近代日本の発展に貢献したNECは、1977年からの第2の創業において、ICTの力で高度な情報社会を追求する企業へと転換。ICT企業の先駆けともいえる存在になった。これは、NECが通信機器とコンピュータをつくる企業から、日本の情報通信産業をリードする担い手へと大きな変身を遂げたことを意味するものでもあった。
1977年10月10日に行われた小林氏の30分間の基調講演は、NECの「第2の創業」を宣言する30分間であったともいえる。