電話機交換機の製造、販売を主目的とする新会社「日本電気合資会社」の出現は、日本の電気通信業界に一大旋風を巻き起こした。
設立は岩垂邦彦氏と前田武四郎氏の出資によるものとなっていたが、その背後には、米国最大企業であるウェスタン・エレクトリック(WE)の存在があることは、多くの人が知っていた。さらに、新会社は、発足直前に三吉電機工場の買収という大胆な離れ業をやってのけた。遠大な計画を持って興した会社であることは誰の目にも明らかであった。
まさにベンチャー企業そのものだったNEC
NECの最初の業務は、海外製品の輸入販売であった。
WEの電話機および交換機、その付属品のほか、GE(ゼネラル・エレクトリック)の電灯電力機器、計器、試験器を取り扱い、さらに米電線会社であるシンプレックスの各種ゴム被毅銅線、米ステレン製造会社の各種ボイラー、オーストリアのハートマスの各種カーボン製品の輸入販売も行っていた。岩垂氏および前田氏が、これまでのつながりで販売代理権を持っていたものばかりだ。
スタート時の様子は、まさにベンチャー企業そのものであった。
42歳の岩垂氏が事実上の社長の役割を担い、準備段階から業務を手伝っていたWEのW.T.カールトン氏が米WEとの連絡や、工場の整備および生産準備を担当。岩垂氏の10歳年下の前田氏が営業、渉外を担当した。だが、実際には、それぞれには正式な職名がなく、月給を口頭で伝えるような気やすさを持った雰囲気の会社であったという。この時の様子を前田氏は、「いわば水いらずの内輪同士。みんな楽しく働いていた」と振り返っている。
岩垂氏や前田氏が経営していた会社からも主要な人材が新会社に移籍。買収した三吉電機工場では約50人の職工が残り、他社からも、すでに業界で名声を得ている電気技術者が複数移籍してきた。
事業開始当初はWE製の電話機、交換機などを販売し、これを修理するビジネスで事業を拡大していったが、目標としていた自前での電話機の生産となると、その分野に関しては素人の集団である。苦労の連続だったという。
最初に完成させた磁石式電話機は、多くの欠陥があり、しかもその欠陥が電気的な欠陥ではなく、歯車の雑音が大きく、真鍮鋳物の仕上がりが悪いといったように機械的な部分での欠陥が目立つというありさまだった。機械設備が整わず、必要な材料が不足し、技術の蓄積が皆無で、しかも熟練エがいないという「ないないづくし」でのスタートだ。生まれた不良品は再生利用せずに、必ず廃棄して、ひたすら優等品の完成に努めた。だが、官立である逓信省の製機所や、先行する沖商会の生産技術の水準にはなかなか到達しなかった。
この状況を改善したのが逓信省製機所出身の技術者による指導と、WEによる材料供給および生産方法の指導、そして、優れた道具の手配であった。
現代へも受け継がれる創業時のDNA
NECは、1902年5月に、電話機の生産を開始してから3年半を経て、最初の目標であった累計生産1万台を出荷した。当初の予定よりも時間はかかったが、品質を高めながら量産することにこだわり続ける姿勢は変えなかった。
NECは、創業にあわせて、営業部門の基本方針として、「Better Products, Better Service」のスローガンを掲げた。営業部門を統括していた前田氏が打ち出したものであり、英語としていたことも、外資系企業がバックにいることを伺わせるものといえた。
このスローガンによって、NECが輸入販売する機器が世界でも一級品であること、NEC自らが生産する機器も世界一級品であること、そしてアフターサービスにも責任を持つことを、社会との約束に掲げたというわけだ。経営陣は、工場に対して、この約束にふさわしい製品の生産を要求。不合格品を惜しまずに廃棄したのもこの姿勢を徹底するためだ。また、顧客接点の現場においては、注文量の多少にかかわらず、取付や調整、保守、修理の作業に万全を期すように徹底した。
また、「Best」ではなく、「Better」とした点にも意味がある。Bestとした時点で、それ以上に最高の製品やサービスはないが、「Better」としたことで、常に最高のものを追求しつづけるという姿勢が明確になる。NECは、常により良いものを追求していく姿勢を、「Better」という言葉に込めたというわけだ。
125周年を迎えた現在のNECでも、Principles(行動規範)のひとつに、「創業の精神『ベタープロダクツ・ベターサービス』」の一文を盛り込んでいる。
このように、製品の品質とアフターサービスの強化に徹底的にこだわり、顧客本位のビジネスを行うことは、NECが創業時から持つDNAなのである。
現在のNECには、逃げ出さない、諦めないという姿勢が根づき、高い要求に必ず応え、最後までやり切る企業としての評価がある。通信事業者や金融、防衛分野などが要求する高度なSI(システムインテグレーション)の実現につながる源泉といえる部分だ。125年の歴史によって培われてきた精神が、NECのDNAとして組み込まれているのは間違いない。
1899年(明治32年)7月17日、日本電気株式会社が設立された。
この日は、外国資本の直接投資が認められた条約改正の発効日であり、NECは日本初の外資系企業として、誕生することになった。
資本金は20万円。米WEが54%を出資する一方、岩垂氏が33%の株式を持つなど、日本側の持ち株比率は46%となった。株式会社は7人以上の発起人を要するというルールがあり、役員には新たなメンバーが加わったが、実質的な経営は合資会社時代と変わらず、岩垂氏、前田氏、カールトン氏の3人がリードした。このときの岩垂氏の肩書は専務取締役だが、役割は社長そのものであった。
事業が本格化すると、想定したとおりに、沖商会との競争が激化した。だが、最新機械を導入する沖商会と、旧式機械で生産するNECとの国内生産力の差は歴然だった。NECが累計生産1万台を達成した1898年~1902年までの年平均生産台数は2900台。これに対して、沖商会は4200台の生産規模に達した。また、1901年~1902年までの電話交換機の自社生産の売上高を比較しても、NECは年平均13万6000円であるのに対して、沖商会は25万3000円と約2倍の差が開いていた。
だが、同じ期間の売上高全体を比較すると様子が違っていた。NECは年平均70万円を売上げ、沖商会の55万円を上回っていたのだ。
この差は、WE製品をはじめとした輸入品の貢献によって生まれたものだ。前田氏が打ち出した「Better Products, Better Service」の方針に則って、優れた技術を採用した海外製品を輸入し、これを優れたサービスとともに提供するという手法で、沖商会に対抗した結果といえた。外資系企業ならではの特徴を生かした経営ともいえ、実際、1901年の売上高71万円のうち、WE製品が61.3%を占め、輸入製品全体では71.3%を占めている。国内生産の自社製品は28.3%、他社の国内製品が0.4%という構成比だった。
日本初の外資系企業として誕生したNECは、「その発展の速さ、企業経営の斬新さ、技術の高さ、および日本国民の生活向上に果たした功績のいずれの点でも、外資合弁会社の先駆者として見事にその役割を果たした」と、同社70年史に記している。
だが、NECが目指していたのは、「自家生産優先」の事業体制である。輸入品による売上高を、国内生産品が上回ることが当面の目標となっていた。
そこで着手したのが工場の強化である。
誰が言ったか「三田のハイカラ工場」
NECでは、1900年に工場移転を決定。検討を重ねた結果、旧工場から東南方に約100メートル離れた三井一門が所有する東京・三田の広大な敷地を確保することにした。最初は5845平方メートルの土地を取得。その後、10年間に渡り、2万2069平方メートルの土地を取得していった。ここが、現在のNEC本社であるスーパータワーがある場所だ。米シカゴのWEの工場を模した赤レンガづくりのモダンな建物は、日本の土地柄を考慮し、耐震耐火建築によって設計され、関東大震災では、鉄筋コンクリート建ての近隣の工場が大きな被害を受けるなか、その建物だけは無傷で残った。
新工場の建設は、WE全体の更新計画とともに実行され、他の工場で使用されていた中古品を導入。それでも日本の生産拠点としては、他社の羨望の的となるような設備であり、自動旋盤は、この当時は、時計生産を行う精工舎と、NECにしかないものだったという。
さらに、当時の日本の工場では珍しかった自家発電設備も導入している。新たな設備の導入とともに、日本で主流となっていた工程ごとに親方が管理する「親方制度」(請負制度)からも脱却し、WEが採用していた近代的管理手法を工場に持ち込んだことも見逃せない。
こうした生産拠点の移転、強化によって、機械や道具が整い、NECの自社生産品の品質が向上し、生産性の改善によるコスト競争力が備わった。その成果は明らかだった。逓信省の入札では、NECの連勝続きという結果になっていったという。
国内電話機市場は、逓信省が推進する第1次および第2次電話拡張計画によって、大きな盛り上がりをみせるなか、NECの業績は大きく伸長し、創業期の経営基盤を確立することができた。
ちなみに、NECには、1908年時点で、すでにタイムカードが導入されていた。日本で最初にタイムレコーダーがアマノによって開発されたのが1931年であり、その先進性がわかる。
また、NECでは、米国流の経理手法を持ち込み、予算統制や経理監査の徹底、原価計算の採用など、どんぶり勘定とも言われた日本企業のやり方にもメスを入れた。帳簿や伝票のすべてがWEと同じ様式のものを採用し、伝票の項目はすべて英文で書かれ、その下に日本文の説明がついていたという。
この当時、NECは、「三田のハイカラ工場」と呼ばれていたという。また、「NECに勤務していると言えば、すぐ嫁の話がまとまった」という逸話が、同社の社史に掲載されている。「世間から信用されていたこと、ハイカラな社風が、世の娘心をくすぐったことに加えて、なによりも収入がよかった。当時、男子従業員の平均収入は、民間工場の全国平均より5割以上高く、政府直轄工場並みであったと言われている」と記されている。
(つづく)