「ナナナナ~」のギャグで一世を風靡したお笑いコンビ「ジョイマン」。その後風のようにお茶の間から姿を消した彼らだが、今もコツコツと笑いの世界で生きている。そんな山頂と地底の景色を見てきたジョイマンの高木晋哉が、日々の出来事を徒然なるままに語り、「あー人生つまんない」と思っているアナタにふっと生暖かい風を吹かせてくれる。
数年前の春。とある平日の午後のことでした。僕は当時5歳の娘と一緒に公園で楽しく遊んでいました。すると、恐らく娘の友達であろう少女が不思議そうな目で僕を見つめながら話しかけてきたんです。
「なっちゃんのパパだよね? なんでなの? うちのパパは今日はお仕事だからいないのに、なんでなっちゃんのパパはここにいるの?」
一瞬、僕は何を聞かれたのか分かりませんでした。なぞなぞ? とんち? そんな類いの問いかけのようにも聞こえました。その少女に恐らく他意はなく、ただ素朴な疑問を投げかけただけでしょう。
しかし僕はその問いに対する答えをすぐに用意することができず、激しく混乱し、その場に立ち尽くしていました。なぜ僕はここにいるのだろう。取り囲む世界が僕を“異物”だと気付き、急激に余所余所しくなっていくような気がしました。
確かに、見渡せば公園には僕以外に父親の姿はありません。基本的に平日の昼間の公園は、母親と小さな子どもしかいないようです。僕はなぜここにいるのだろう。母親達や子ども達がこの公園で遊ぶ姿は、平日の昼間の風景としてとても自然に見えます。
僕の存在はイレギュラー。普通は仕事をしているはずの時間の父親という存在が、今ここにいるのは不自然なのでしょう。いや、しかしまず“自然”という概念とは何だろう。そして“不自然”とは何だろう。目に見える景色がグニャリと曲がり、マーブル模様になって僕を怪しく包み込み、ここではないどこかへ連れて行こうとします。
何と答えれば良い? 例えば「芸人だから平日が休みなことがあるんだよ」と簡単に言い放ってしまっては子どもにはよく分からないだろうけど、何よりも僕は平日どころか土日も結構休んでいます。辻褄が合いません。
というかまず、「芸人だから」という入りがよくないような気がします。その文脈は芸人以外の人には往々にして通じませんし、自分達は皆が働いている平日に休める特権階級なんだ、というような傲慢な響きすら感じます。いやそんなことより、僕は皆が働いている平日はもちろん、皆が休んでいる土日も結構休んでいるんです。
お笑いの世界で芸人にばかり囲まれていると、どうしても色々と麻痺してきます。僕もたまに夜中などに、お笑い芸人を始めた20代前半の頃とあまり変わらないようなダラダラした格好でボロい自転車をこいで家まで帰っている時などにふと、「普通に考えたら38歳男性ってスーツ着て車に乗って家だって買ったりしてるんだよな」とか急に頭をよぎって怖いやら恥ずかしいやらで、猛スピードで坂を下りながら「わー」と叫びだしたくなることがあります。
「38歳男性」としての自分の仕上がりに怖くなるというよりは、その状態が普通だと思ってしまっていることに気付いて怖くなるんです。良い悪いは抜きにして、やはり“異常”なんだろうなとは思います。
僕はなぜここにいるか。そんな簡単なことに答えられない自分。僕が虚ろな目で質問の衝撃に気を失いかけている間に、遊ぶことが仕事であるその少女は、様子のおかしな大人に構っている時間は無いとばかりに、その場を去ってしまったようです。その後のことはあまり覚えていません。
しかし数年経った今でも、あの質問は耳鳴りのように頭の奥に響いています。僕にとってあの質問は「なぜあなたは芸人なのですか?」という質問と同じ意味のように感じるのです。今でも納得のいく答えは見つかっていません。
なぜ僕は芸人なのか。この命題について考えるきっかけをくれたあの少女に、とっても感謝しています。あの少女は、仕事があまり無いくせに芸歴ばかり重ねる日々を送る僕のために、神様が遣わせた小さな天使なのでしょう。
いつかもし自分の中で納得のいく「答え」が芽生えたら、あの天使の前に再び立って胸を張り、あの質問に答えること。それがこれからの僕の人生においての大いなる使命だと強く感じています。
筆者プロフィール: 高木晋哉
お笑い芸人。早稲田大学を中退後、2003年に相方の池谷と「ジョイマン」を結成。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。趣味は詩を書くことで、自身のTwitterでの詩的なツイートが話題となっている。