仮に私が「羊羹」についての文章を書いたとする。大きく2つのタイプの異なる文章が考えられる。ひとつは下記のようなタイプ。
「ようかん」の販売量が急増している。日本ようかん◯◯組合の発表によると、ことしの上期の国内のようかん販売量は、昨年よりも35%にあたる◯◯トン増え、◯◯トンとなった。特に6月の「水ようかん」の販売が70%増加したことが販売量の大幅な増加の理由と考えられている。今後は年末にかけて、景気後退が見込まれてはいるものの、お歳暮シーズンの贈答用ようかんの需要は近年拡大傾向にあり、年間を通じたようかんの国内販売量は大幅な増加が見込まれている。
もうひとつは下記のようなタイプ
夏の訪問先でのこと。不意にようかんを勧められた。亡くなった祖母を思い出す。祖母はようかんが大好物だった。子どもの頃、夏に祖母の家を訪れると、涼し気な風鈴の音とともに、祖母はよく分厚くきったようかんに爪楊枝を指して私に薦めてくれた。子どもにはもったいないほど分厚いようかん。以来、日本の夏といえば、私は風鈴の音と冷えたようかんの画が目に浮かぶ。ようかんと日本の夏は切って切り離せない関係にある。
どちらも同じ文章量で「ようかん」について書かれている。結論は似ている。だが、前者は記事。後者はエッセイだ。
前者は「客観的」である。こうした記事(報道)に対して、読み手は批判的に接するべきだ。情報源は確かなのか。数値は正確か。結論に至るまでの論理に飛躍はないか。仮に記載内容に誤りがあれば指摘(批判)を行う意義は高い。記事に誤りがあれば、誤報を訂正(修正)する責任が発信者にはある。
後者は「エッセイ」である。筆者が自ら「主観」を意見として主張している。意見の表明である以上、反対意見や批判もあることだろう。読者が自由に主張されるのは全く構わない。だが筆者を批判したところで、誤記以外を筆者は、訂正(修正)のしようもない。
以上が記事とエッセイとの、基本的な接し方ではないだろうか。
最近、ネット上で、多くの方々の様々なコメントを目にする。公開されている情報に関連して、自由で闊達な論議が巻き起こることは否定しないが、「記事」と「エッセイ」との違いが理解されないまま、書かれている「事実」への批判/反論と、筆者の意見への批判/反論が入り混じって議論がヒートアップするケースを見かける。
「記事」の批判はあくまで客観的に。主観的な批判は話をややこしくする。一方で「エッセイ」に対する批判は主観的でもよいがよいが、筆者に反論したところで、そもそも筆者の主観で書かれたものである。筆者との価値観(主観)の違いでしかない。
ネット上のワイガヤ(ワイワイ・ガヤガヤ)もいいが、どうせならば有意義なワイガヤであって欲しい。
<著者プロフィール>
片岡英彦
1970年9月6日東京生まれ神奈川育ち。京都大学卒業後、日本テレビ入社。報道記者、宣伝プロデューサーを経て、2001年アップルコンピュータ株式会社のコミュニケーションマネージャーに。後に、MTVジャパン広報部長、日本マクドナルドマーケティングPR部長、株式会社ミクシィのエグゼクティブプロデューサー等を経て、2011年「片岡英彦事務所」を設立。企業のマーケティング支援の他「日本を明るくする」プロジェクトに参加。2015年4月より東北芸術工科大学にて教鞭をとる。