ある日、家族で近所のレストランに行った。私にとって"大事件"が起きた。それは、次男が「お子さまランチ」のエビフライを残したのだ。カリカリした「しっぽ」を残したわけではない。エビフライ本体(つまり「エビ」)を残したのだ。

若い世代の方は「それのどこが"大事件"なんだ? 普通じゃない?」と思われるかもしれない。しかし私にとっては、実に衝撃的なことだった。

エビフライを残すなんて考えられなかった時代

話は35年以上前にさかのぼる。私が小学校低学年の頃、私は母や祖母に連れられて、よく銀座のデパートの上層階にあるレストランに、たまに連れていってもらった。和食、洋食、中華…何でもあり、食券を買ってから入る広い「食堂」のようなレストランだった。私はいつも「お子さまランチ」を頼んだ。最近の「お子さまランチ」と中身はそれほど違いはなかった。ハンバーグ、エビフライ、ナポリタン、プリンの容器で型どられたチキンライス(ケチャップライス?)。最近のお子さまランチと少し違うのは、ライスに日の丸が立っていた。

当時、たまに銀座や日本橋のデパートに行くときは子どもだてらに「よそ行き」の服を着て連れて行かされた。ショッピングに付き合うのは退屈だったが、お子さまランチをレストランで食べられるというのは特別なことで、嬉しかった。もちろん快食した。クリームソーダもおねだりして注文した。

何が言いたいかというと、「お子さまランチ」のエビフライを残すという感覚は、当時の私の感覚では、ありえないことだった。

日本は世界有数の外食産業の激戦国

当時も、定食屋、ラーメン屋、寿司屋などは家の近所にもあった。だが、子供が訪れて楽しいと思えるような飲食店ではなかった。

1970年以降、徐々に日本にもファーストフードやファミリーレストランが増えてきた。仕事でいつも忙しかった父との数少ない思い出は、当時、府中市にできた「すかいらーく」に、家族4人自転車で30分以上かけて日曜日に行った思い出くらいだ。それだけ当時「ファミリー」(子連れ)で食事を気楽に楽しめる場所は少なかった。

以来、40年が経ち、日本全国で核家族化が進んだ。都市部への人口集中も進んだ。学生や若者の一人暮らし(社宅住まいや賄い付きの寮や間借りではなく)も一般化した。

ファミレス、ファーストフードの需要も増え、その数も増え続けてきた。恐らく、現在の日本は世界有数の外食産業の激戦国であろう。

すき家問題にひそむ2つの問題点

ここで「店舗の労働環境改善」を経営の最重要課題に設定したという牛丼チェーン店「すき家」に話を移す。大きく2つの視点で考えたい。

1つは日本が外食産業の激戦国であるため、日本人が「コスパ」に特別厳しい点である

東南アジアなどの屋台などに比べると、確かに日本の外食は高いかもしれない。しかし、安全性、清潔さ、メニューの豊富さ、店員のサービス、店舗数、立地、営業時間など、利用者にとっての「利便性」を総合的に比較すると、日本の「コスパ」は、世界有数である。

日本人は、このハイレベルの「コスパ」を当然だと思っている。深夜や早朝でも300円~400円程度で、空調の利いた、明るく、安全で、清潔なフロア(トイレもキレイ)で。店員に「いらっしゃいませ」と気持よく迎えられ、1万円札を出しても、イヤな顔ひとつされずに、お釣りをごまかすことなく返してもらえる。これが「あたりまえ」ということが、世界標準から考えると素晴らしいことだ。

一方、この高水準の「サービス」は、時に従業員にとって過度な負担を強いる。海外では1泊数万円もする高級ホテル内のカフェやバーで受けるハイレベルな「顧客満足」を、一般的な飲食店でも「あたりまえ」に求められる。これでは従業員の方はたまらない。その分、賃金が高ければともかく、そんなわけはない。

しかし、この従業員たちの生活を支えているのも、このハイレベルな「コスパ」の日本の外食産業だったりもする。サービスの提供者であると同時に受益者でもある。

従業員の待遇改善を行うとそのコストは販売料金に転嫁される可能性がある。その結果、顧客(従業員を含む)にとっては「値上げ」という不利益につながる可能性がある。

一方で、従業員の待遇が良くならず、従業員の過度な負担により退職や欠勤による人手不足がさらに深刻になると、「すき家」の例のように、休業、閉店という形になってしまう。これは従業員にとっては「雇用」が失われることを意味する。この失われた「雇用」が一時的には他の産業に吸収されればよい。しかし他の産業であっても同様の人手不足が問題となれば、長期的にどうなるかはわからない。

経営層が気づかない「ゆるさ」

もう1つの問題は現代の「ゆるさ」という視点である。

あえて自分の子供の「エビフライ」を例にする。私の両親の世代(戦前・戦中あるいは戦後のベビーブーマー)は、少なからず「ひもじい」思いをして育ったと思う。日本が豊かではなかった時代だからだ。幸い私の世代(1970年生まれ)以降は、少なくとも東京のサラリーマン家庭に育っていれば「ひもじい」という思いまではしないで育った人が多いと思う(もちろん家庭にもよるが、ここではそうした「格差」には触れない)

「一億総中流」と言われた時代に、私は幼少期を送った。「食べ物を大切にする」「ありがたく何でも全部頂く」ということは、厳しく父や母に躾られた。「ピーマン嫌い」「人参イヤだ」という個々の好き嫌いはともかく、お子さまランチの「エビフライ」を残すことは考えもつかなかった。

「飽食の時代」がやってきた。「ダイエット」「健康食」「ロハス」…わたしの子供の世代は、生まれながらにして、「ひもじさ」「ありがたさ」を知らない。いわゆる「アレルギー」の問題もある。子どもたちには「無理なものを無理に食べなくてもいい」ことが半ば当然になっている。むしろ「食べ過ぎ」は控えるように注意することもある。

彼らは「多くの選択肢」から自由に選ぶことができる。食べ物以外の娯楽などもそうだ。私の子供の頃と比べても、恐ろしいほどに選択肢の幅が広い。コンビニのドリンクだけでも何種類もある。

「パンがなければケーキを食べればイイ」ではないが、「エビフライがイヤならカニクリームコロッケを食べればイイ」というのが現代なのだ。一言でいうと「ゆるさ」が標準とされている時代だと思う。

「お子様ランチ」のエビフライを残すことも「あり」。

友人との待ち合わせに時間と場所を事前に決めず、「20時くらいに渋谷あたりで。ついたら連絡する」という「ゆるさ」も「あり」。

しんどいバイトをやめることも、もちろん「あり」。他のバイトを探せば良い。仮に働かなくても命に関わるほどの「ひもじさ」にまで至ることは、まずない。

今が「ゆるい」時代だからいけないというつもりは全くない。一方で、かつての日本が今ほど「ゆるく」はなかったということは紛れも無い事実だと思う。

現代の日本社会における「コスパ」と「ゆるさ」が、果たして今の社会において「良い」のか「悪い」のかは私には分からない。しかし、少なくとも私よりも上の世代の経営者の方々の中には、ストイックなまでの「コスパ」志向と、私の子どもがエビフライを平気で残してしまう「ゆるさ」に、少なからず違和感を感じることもあるのではないかと思う。

※写真は本文とは関係ありません

(タイトルイラスト:小山健)


<著者プロフィール>
片岡英彦
1970年9月6日 東京生まれ神奈川育ち。京都大学卒業後、日本テレビ入社。報道記者、宣伝プロデューサーを経て、2001年アップルコンピュータ株式会社のコミュニケーションマネージャーに。後に、MTVジャパン広報部長、日本マクドナルドマーケティングPR部長、株式会社ミクシィのエグゼクティブプロデューサーを経て、2011年「片岡英彦事務所」を設立。企業のマーケティング支援の他「日本を明るくする」プロジェクトに参加。