「意識高い系」という言葉を主にネット上で目にする。もともとは、学生の就職活動にまつわる言葉だったのが、一般にも使われるようになったようだ。「意識高い系」とは要するに、「自意識が高く、虚栄心が強い」「イケてる自分を自己演出(セルフブランディング)する」ことのようだ。

「意識高い系」は不安な気持ちを持っている

もっとも、最近の大学生や就活生が、学生団体を立ち上げたり、そのことをプロフィールに書いたり、あるいはSNSで「意識高い系」の発言をしたりすると、本当に「意識が高い」のか、あるいは単に「意識高い系」(セルフブランディングとして意図的に行っている)のかは別として、「意識高い系」だと揶揄されたりもするようだ。何だか肩身が狭そうで気の毒だ。

だが、思い起こせば自分だって、学生時代には遠からずのことをやってきた。私は経済学部の学生だったので、ちょっと難しめの経済学の古典などを大して読みたくもないのに買ってきて格好をつけて読んでみた。古典であるから難しくて読んでもあまり分からなかった。だから解説書なども読んでみた。すると分かったような気になるのだ。

時事問題を学んだり、若いサラリーマンが啓蒙書などにハマったり、朝活やったりするのと変わらない。そう、「香ばしい」のである。

何でそんなことするかというと、大学生である自分が不安なのだ。

最近になっても似たようなことをする時がある。英語だって100%流暢に使えるわけではないのに、他の言語を学んでみたりする。

プロのカメラマンに、大して代わり映えのしない自分の顔をプロフィール用に撮ってもらったりもする。一方で、若い時以上に、歳をとってくると「知らない」ということを認めたくなくなってくる。「知ったかぶり」をするのは、「(この歳になって)そんなことも知らないのですか?」と思われることが不安だからだ。

いつの時代でも老若男女の誰もが少なからず自分自身に「不安」を持っている。同時に「自分には無限の可能性がある」という勘違いも少なからずしている。その不安感からくる「自分磨き」「意識高い系」を、他人が揶揄することはあまり気持ちの良いものとは思えない。では、そんな自分の身の回りにいる老若男女の「意識高い系」状態の人たちに、単に鬱陶しがったり、揶揄したりするのではなく、もっと前向きに自分はどう接していけば良いのか?

答えは実は簡単だと思う。「意識高い系でもいいんじゃないか?」と、ただ肯定すればいい。「意識高い系」は自分の不安な気持ちを、大して他人に迷惑かからなそうな自分のできる範囲のこと(何かを学んだり、人とつながったり、SNSで友人に自慢したり…)で解消している程度のことなのだと思えばよい。

「意識高い系」の人のことをことさら他の人から分類し、ことさら揶揄してしまうのは、あまりに「意識低い系」なんじゃないかと思う。「意識低すぎる系」として一生過ごすよりは、前のめりな分だけ、仮に本当の「意識高い」人も、単に「意識高い系」の人も、失敗もあるかもしれないが、大成功もあるかもしれない。それくらいの「良い加減」な付き合いが苦にもならずに良いのではないか。


<著者プロフィール>
片岡英彦
1970年9月6日 東京生まれ神奈川育ち。京都大学卒業後、日本テレビ入社。報道記者、宣伝プロデューサーを経て、2001年アップルコンピュータ株式会社のコミュニケーションマネージャーに。後に、MTVジャパン広報部長、日本マクドナルドマーケティングPR部長、株式会社ミクシィのエグゼクティブプロデューサーを経て、2011年「片岡英彦事務所」を設立。(現 株式会社東京片岡英彦事務所 代表取締役)主に企業の戦略PR、マーケティング支援の他「日本を明るくする」プロジェクトに参加。2011年から国際NGO「世界の医療団」の広報責任者を務める。2013年、一般社団法人日本アドボカシー協会を設立代表理事就任。