写真は7月6日(日本時間)に、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都にあるサラエボの国立劇場で行われたバルカン室内管弦楽団によるコンサートの模様だ。この日、"戦場の指揮者"こと柳澤寿男氏の指揮のもと、ベートーベン交響曲第9番(歓喜の歌)が演奏された。
音楽を通じて平和を訴える
1914年6月28日、「サラエボ事件」が起こり、当時のオーストリア皇太子夫妻がこのサラエボの地で暗殺された。犯人は当時オーストリアと対立関係にあったセルビア民族主義派からの支援を受けた青年だった。これを機に第一次世界大戦は勃発し、欧州は戦乱の時代へと突入。この戦禍はやがて第二次世界大戦へとつながってゆく。柳澤氏は、第一次世界大戦のきっかけとなった「サラエボ事件」から、ちょうど100年にあたる今年、平和への祈りを込めたベートーベンの「第九」を、このサラエボの地で演奏するため、長きにわたって準備を進めてきた。
「第九」の演奏には日本から、柳澤氏の故郷である長野県内(諏訪地方)を中心に、約80人もの合唱団が参加。会場は500人以上もの観客でいっぱいとなり、ホールには「歓喜の歌」が響き渡った。
私はかって、柳澤氏にインタビューをしたことがある。その時に最も印象に残った言葉が下記の一言だった。
「混沌の中で何か活動を始めるにあたって、目標を設定したり、それを達成することに力を注いだりというより、できる人達でできる事をやっている」
柳澤氏は、2007年にコソボ交響楽団のゲスト指揮者として招かれた。初めてコソボ共和国の首都プリシュティナを訪れた時、決して安全が約束されたような街とは言えなかった。停電や断水も頻繁に起こったという。リハーサルの途中に、当時の楽団員の1人が柳澤氏に向かって、「私は楽器を捨て、銃を手に取り兵士として戦う」と告げたこともあったという。当時コソボはそのような状態だった。
音楽に国境があってはいけない
ところが数日後、その楽団員は柳澤氏のもとを訪れたという。そして「申し訳ありませんでした。私たちは本当は戦争を必要としていません」と言って楽団員を続けた。柳澤氏は、多くの人が互いに争う、どんなに危険な場所であっても、「音楽に国境があってはいけない」という。
柳澤氏は、今年、東京、長野、東京、名古屋、金沢市などを、バルカン室内管弦楽団のメンバーらと回り、コソボでの「平和のためのコンサート」の実施を呼びかけてきた。この7月6日のサラエボの国立劇場でのコンサートはその集大成であった。
音楽を通じて平和と友好を訴える。祈りを込めたベートベンの「第九」の「歓喜の歌」がホールいっぱいに響き渡ると、会場は総立ちとなり、いつまでも止むことのない拍手に包まれた。
混沌の中で何を始めるか?
栁澤氏はコソボでの生活が始まった頃、よく現地の子どもたち接すると、初めに「あなた達の夢は何ですか?」と聞いたという。ところが、子どもたちは口をそろえて「夢などありません」と答えた。荒れ果てた現実を目の当たりにした子どもたちの目には、「夢なんてないんだ」と自ら否定することしかできなかったのではないかという。ところが、1度コンサートを体験し、練習を重ねる機会を得ると、「将来はオーケストラに入りたい」という子どもが出てきたという。
柳澤氏は、1度失いかけた夢を、再び追いかけるその先に、自分たちのオーケストラがあればうれしいと話す。
われわれは日本という先進国に住んでいる。もちろん「目標」「戦略」を十分に練った上で、日々の生き方を決めていくことは重要だ。一方で、日々の生活の中では、事前に予期しなかったような出来事もよく起こる。
「できる人たちで、今できる事をやっていく」「頭で考えながら自分たちの進むべき道を探していく」
先の見えにくい今のような混沌とした時代にこそ、一人のプロフェッショナルとして生きる、柳澤氏の生き方から、学ぶべきことはとても多い。
<著者プロフィール>
片岡英彦
1970年9月6日 東京生まれ神奈川育ち。京都大学卒業後、日本テレビ入社。報道記者、宣伝プロデューサーを経て、2001年アップルコンピュータ株式会社のコミュニケーションマネージャーに。後に、MTVジャパン広報部長、日本マクドナルドマーケティングPR部長、株式会社ミクシィのエグゼクティブプロデューサーを経て、2011年「片岡英彦事務所」を設立。企業のマーケティング支援の他「日本を明るくする」プロジェクトに参加。