W杯も中盤に差し掛かってきた。書こうかどうか悩んだが、タイトルの通り「W杯を見る人と見ない人の違い」について書こうと思う。

「ワールドカップを見なくていいんですか?」

なぜ「書こうかどうか悩んだ」か先に書きたい。理由は私があまり見ないからだ。ところが世の中には「私は見ない」とは言いにくい雰囲気が漂っている。仮に「私は見ない」と書くと、熱狂的な「W杯」の視聴者から批判されるのではないだろうかと、マジメに気にしている。

一方で、私は午前中の番組もほとんど見ない(放送時間帯にテレビの前に日頃いないので…)。全く知らなかったのだが、ある番組内で「ワールドカップの日本戦を見ないで何をしているの?」というような特集を放送してネット上では大炎上となったらしい。「ワールドカップを見なくていいんですか?」と質問してしまったようだ(見ないほうがおかしいといった番組構成だったので、そりゃ炎上するだろう…)。もっとも、地上波テレビの企画制作者の感覚では、視聴率が50%もあるのに見ない人というのは一体他に何をしているのかと純粋に不思議に思ったのかもしれないが。

こんなデリケートな内容を、なぜ今回書くことにしたかというと、それは最近の私自身が日頃考えている「多様性」と「寛容性」について考えさせられたからだ。

日本はもともと「多様性」という意味では今でも乏しい国だ。これは社会全体にも言えるし、職場環境などにも言える。協調性や同調性を重んじる一方で、個性の発揮や自己主張を抑えることが美徳であるという伝統があった。今でも職場における、女性の働き方などにおいては多様性の尊重がないがしろにされることも少なくはない。これは本当に困った問題である。

一方で、日本は狭い「村社会」の中で、比較的「寛容性」という意味ではまかり通っていた。海外の職場のように「レイオフ」などは長いこと一般的ではなく「長期雇用」「年功序列」「天下り」といった、長年、職場に務めた社員には、その能力とは別に「寛容」な処遇が、与えられることが、かつては民間企業でも一般的だった。

「多様性」と「寛容性」

良いか、悪いかの問題ではなく、日本社会全体の流れとして、最近は、徐々に「多様性」が重んじられるにつき、その反面「寛容性」には乏しくなってきていると思う。

いつの時代にも、その時々の流行やブーム、いわゆる「国民的なる行事」に強い関心を持つ人々がいる。こうした人々は、どうしてこの「国民的なる行事」に関心を持たない人がいるのか不思議に思うだろう。一方、時代が多様化すればする程、必ずしも誰もが「国民的なる行事」に関心を持たなくなる。こうした人々は「どうしてこんなにも、1つのスポーツの国際大会に熱くなるのだろうか」と、W杯に熱狂する人々を不思議に思うこともあるのだろう。それはそれで無理もないことだと思う。

今回、私が1番言いたいことは、多様性と、寛容性の両立の大切さだ。「自分と同じくW杯に関心を持つ人」がいれば、その数と同じかそれ以上に、そうでない人もいる。という、たったそれだけの「多様性」と「寛容性」のある社会であってほしいと。

「W杯」のことを例に挙げたが、「女性の生き方」「学生の就職」「外国人労働者の受け入れ」「隣国との外交関係」等、日本を取り巻く諸問題において、「多様性」と「寛容性」というキーワードは、今後、ますます重要となるだろう。

今回のコラムは出張中のパリのカフェで書いた。ちょうど斜め前のカフェの窓ガラスにはパブリックビューイングで「W杯」が放映されている。このカフェの周りは、その後、観戦客が大勢集まり大騒ぎになったが、移民の多いパリでは誰がどっちの国の応援をしているのかもよく分からなかった。


<著者プロフィール>
片岡英彦
1970年9月6日 東京生まれ神奈川育ち。京都大学卒業後、日本テレビ入社。報道記者、宣伝プロデューサーを経て、2001年アップルコンピュータ株式会社のコミュニケーションマネージャーに。後に、MTVジャパン広報部長、日本マクドナルドマーケティングPR部長、株式会社ミクシィのエグゼクティブプロデューサーを経て、2011年「片岡英彦事務所」を設立。企業のマーケティング支援の他「日本を明るくする」プロジェクトに参加。