私は、ロンドンから東京に着任して最初の仕事は、スワップディーラーでした。 皆さんもポジションを翌日にキャリーするために行っているあのスワップですが、私は6カ月物や1年物で張っていました。
スワップディールは、2国間の金利差が拡大するか縮小するかを予測して、ポジションを張るトレーディングです。
スワップは「スポット」と言われる、いわゆるFXよりも値動きが小さい分、張る金額は何十倍も大きく、かなり大きなポジションをスポットよりも長期間キャリーします。
アメリカの戦友
東京オフィスはさすがに銀行の本部だけのことはあって、リスク許容度がロンドン支店よりもはるかに大きく、私も相当大きなポジションを張っていました。
そうこうしているうちに、「最近、ニューヨークの大手米銀から大玉が出ている」という話が耳に入り、たちまちその相手とマーケットでぶつかりあうことになりました。
そんなある夜、今までキャリーしていたポジションを全部手仕舞おうとした時、彼とブローカー(仲介業者)を通じてぶつかりました。
こちらも相当大きなポジションを持っていて、いくらでもやる気でいましたし、対する相手からもいくらでも受けるぜという雰囲気がひしひしと伝わってきました。結局、金額の下の下までつけてポジション全額を閉め、ディールを終えました。
それから何日かして国際電話があり、「オレだよ。今香港にいる。明日東京に行くけど、会えないか?」、やつからでした。
そして、翌日、初めて会いました。パワーを感じるイタリア系のアメリカ人でした。旧知のように話は盛り上がり、その後、ニューヨークでも再会しました。
フランスの戦友
東京でドル/円ディーラーだった頃、フランスのある大手銀行から3人のシニアクラスのディーラーが訪問してきたことがありました。
彼らは今後のドル/円相場について尋ね、私はマーケットの大方の見方とは異なる、自分なりの見通しを話しました。3人の訪問者は、質問を交えながら、実に真剣に聞いて帰っていきました。
それから半年ぐらい経って、前回の訪問者のひとりだったパリ本店のチーフディーラーが再び訪ねてきて、「お前の見方に乗って、ドル/円のポジションを持って、結構な儲けが出た」と喜んでいました。
それを聞いて、こちらもうれしくて、彼を私が仲良くしている東京市場の他のディーラーたちにも紹介しました。そのフランス人も東京で知り合いがいっぺんに増えたことに大いに喜び、その後こちらからもパリのディーリングルームを訪問するなど交流を深めました。
スペインの戦友
1992年に、スペインでバルセローナ・オリンピックが開催されることになりました。オリンピック開催国の通貨は特需もあって、一般的に強くなると言われていたことや、当時スペイン・ペセタ(ESP)は、高金利の通貨でもあったことから、金利差も狙えそうだということで、主要国で最も低金利のスイスフラン(CHF)を売って、ペセタを買うことにしました。
しかし、それまで扱ったことのない通貨だけに、その考えがあたっているのか今ひとつ自信がなく、「それでは現地に聞いてみよう」と、あるスペインの銀行のマドリッドに問い合わせました。
対応してくれたスペインのディーラーに、「東京にある日本の銀行だが、これこれこういう風に考えて、ペセタ買いのスイス売りをしたいのだがどう思うか」と正直に聞いてみました。
先方からの答えは、「その考えで良いと思う」ということになり、早速その銀行でペセタ買いスイス売りを実行しました。 相場は順調に進み、為替でも金利差でも利益が出ました。ところがある日、突如ペセタが対スイスフランで急落しました。
その銀行に問い合わせたところ、海外からあまりにも大量の資金がスペインに流入してきたため、スペインの金融当局が資金の流入規制を発表したということでした。これは、まいったと思いましたが、そのスペインの銀行は、「こんな規制は一過性のものだから、またペセタは強くなると思うので、ポジションは継続した方が良い」とのアドバイスでした。
そして、確かに規制の効果は一過性で、再びペセタは盛り返し、さらに強くなりました。しかし、オリンピック開催まではまだ間があるものの、「もう潮時」とその銀行で利食い、度重なる有益なアドバイスに礼を言って2カ月に及ぶキャリートレードは終わりました。
このように、ディーラーは洋の東西を問わず、仲間と思えば実にオープンなものだということです。そして、私も海外から円について問われれば、知る限りのことは出来るだけ相手に伝えるようにしてきました。
お互いに情報交換をすることによって補完しあい、内外問わず、仲間が増えることは、人的財産を増やすことになり、巡り巡って、自分自身のためにもなると考えています。
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