私の本業はカメラマン。仕事で訪れたメキシコで世界遺産に出会い、夢中でシャッターを切る自分がいた。写真を通して、日本では味わうことのできないスケール感とこの感動を皆さんに伝えていきたいと思う。

日本からバンクーバーへ飛行機で8時間。2時間の給油待ちの後に、さらに飛ぶこと5時間。長時間にわたるフライトだったが時差があるため、メキシコのベニート・ファレス国際空港へ降り立ったのは日本を出発した時刻の約2時間後だった。この後メキシコで見た景色によって例えられないスケール感と大きな感動をもたらされるとは、長時間のフライトでぐったりしたその時の私には想像すら出来ていなかった。

翌朝メキシコ・シティ中心部のホテルから北東へ約50km、車で1時間半かけて目的地テオティワカン遺跡にたどり着いた。日差しが強く、「暑い! 痛い! でも広い! 」と、思わず叫んでしまった。メキシコは都市部がすでに標高2400mの高地にある為、ジリジリした日差しがつきささる。夏の日差しはこんなものではないというから驚きである(訪問時は4月)。

広さに圧倒され、大地に触れ、ザラリとした埃まじりの乾燥した空気に異国を感じながら遺跡に足を踏み入れた。すぐに紀元前後の古代文明を生きた人の証が目に飛び込んできて、思わず「凄い! 」と声が漏れた。

紀元前150年頃に始まり、紀元後3~6世紀頃まで黄金期を築いたとされるテオティワカンは、最盛期にはおよそ20万もの人々が生活を営んでいたとされている(長安城で約100万人、平城京は約10万人)。都市には排水施設まで整備され、メソアメリカ文明の中心都市として繁栄していた。1000km以上も離れたマヤ地域からも人々が訪れる古代のコスモポリスだったが、文字記録が発見されておらず、その多くが未だ謎に包まれたままである。現在もこの社会の解明に向け、考古学プロジェクトが進められているのだという。

日本から発掘調査に来ている学者も多く、このコラムの歴史的な部分の監修をして頂いているメキシコ国立自治大学・哲文学部人類学調査研究所・博士課程の嘉幡茂さんも、その一人だ。今回は大変光栄な事に、テオティワカンをご専門に研究されている嘉幡さんと一緒に遺跡をめぐった。

テオティワカンの中心部を走る「死者の大通り」

テオティワカンは、南北約5kmに伸びる「死者の大通り」を中心に都市が広がり、北端に「月のピラミッド」がそびえる。とにかく広い。「え~!? 何!? あれっ!? 遠すぎて霞んでるよ~! 」と絶叫。死者の大通りを中心にして右側に「太陽のピラミッド」、そして都市の中心に「ケツァルコアトル神殿」が配され、雄大な姿を今に残していた。

ケツァルコアトル神殿外観。階段状の建造物は「前庭部」

前庭部から望む神殿はかなり大きい!

ケツァルコアトル(羽毛の生えた蛇)は「水」と「豊饒」を意味すると考えられていて、テオティワカンで頻繁に表現されるモチーフの一つである。壁画などに登場するケツァルコアトルは、その胴体に神器の一種であると考えられる王冠を乗せ、異世界から現世に来訪する。下の写真のケツァルコアトルも、王冠であるシパクトリ(ワニ似た想像上の動物という説がある)を、異世界からこちらの世界の為政者へ運ぶために登場したと解釈されている。

神殿の外壁を拡大。左がシパクトリ、右がケツァルコアトル

このケツァルコアトル神殿の神殿内部や周辺部からは、他の巨大ピラミッドからの出土例とは比較にならない、100体以上の人骨が発見されている。埋葬数にも驚かされたのだが、実はこの遺体、死んだ人を埋葬した訳ではない。「生贄」なのだ。しかも位の高い神官の遺体だという。メソアメリカ文明には「生贄」の習慣があり、崇拝の対象だった神や太陽への供物として捧げられたというから驚きだ。

沢山の生贄が捧げられたこの神殿が都市の中心に位置すること、そして異世界から来る神の使いケツァルコアトルが登場することから、ケツァルコアトル神殿はテオティワカンの為政者がこの地を正当に支配するために築き、自らを神格化させる「舞台装置」なのではないかと嘉幡さんは話してくれた。

神殿を見つめながら様々なことを考えた。古代人たちはどのような状況で、どういう思いを抱きながらこの建築物を築いていったのか……。目の前に立ちはだかるこの神殿の内部にまだ生贄として眠る人がいると思うと、探究心が激しくかき立てられていった。