2023年7月に亡くなったフランスの女優、ジェーン・バーキン。彼女はフレンチシックのアイコンというべき存在で、エルメスの社長が、彼女と飛行機で隣に乗り合わせた時、彼女が仕切りのないかごバッグに何でも詰め込んでいたために、探し物が見つからず、ごそごそする姿を見たことから、「バーキン」というバッグを作ることになったことはあまりにも有名です。
才能ある男たちと3人の娘を授かり、年を重ねて増す自然体の魅力は女性の憧れだった
彼女の生涯を、山口路子氏の「ジェーン・バーキンの言葉」(だいわ文庫)を参考にたどってみましょう。ロンドンで生まれたジェーンは、18歳で女優デビューし、音楽家・ジョン・バリーと結婚して長女を出産します。離婚後はセルジュ・ゲンズブールと出会い、おしゃれなカップルとして認知度を高めます。次女のシャルロット・ゲンズブールは、現在はフランスを代表する女優になりました。三十代後半にゲンズブールと別れた後は、映画監督、ジャック・ドワイヨンと結婚し、三女が生まれます。40代半ばで離婚し、作家のオリビエ・ロランと交際し、子どもを望んだと言われていますが、破局しています。
時代を代表する才能ある男性と恋をし、その男性の子どもをそれぞれ生み、仕事をする。アンチエイジングに興味がなく、ゆったりした白いシャツやカシミアのセーターなどシンプルなものを愛する。日本の女性は子どもの頃から年を重ねることに対する恐怖心を刷り込まれていますし、年を取ってからの恋愛なんてありえないと刷り込まれていますから、ジェーンのような人は憧れの存在なのだと思います。が、同書を読んで、私の印象は覆されたのでした。ジェーン・バーキンこそ、女性にかけられた呪いの具現化なのかもしれません。
長女の不幸で「人生が完全に変わってしまった」
彼女の長女、ケイト・バリーは自宅のアパルトマンから落ちて亡くなっています。自宅には大量の抗うつ剤があったことから、自殺も疑われましたが、事故の可能性も否定できません。しかし、妹であるルー・ドワイヨンは自殺だと断定しています。ケイトは10代の頃から麻薬に手を染めるなど、素行には問題があったそうです。ケイトはジェーンに「どうして私をもっと厳しく育ててくれなかったの?」と質問したことがあるそうですが、非行に走る少年少女は、世間が眉を顰めるような行動を取ることで、親の注目を集めたいと言われています。ケイトはさみしかったのではないでしょうか。
仏教では親より子どもが先に死ぬことを逆縁と言い、一番の不幸と言うそうですが、ジェーンも娘の死にうちひしがれます。「すべて自分のせいだという罪悪感におしつぶされた。私は彼女を守れなかった」「人生が完全に変わってしまった」と打ち明けています。
スターの子どもというのは、実は生きていくのが大変なのではないでしょうか。親と子の関係は人それぞれですが、どんなに素晴らしい親であっても、その反対でも「精神的・経済的に独立して、親がいなくても生きていけること」がひとつのゴールとなると思います。つまり、親を乗り越えていかなければいけないわけで、偉業を成し遂げた親のほうが、高いハードルになることは想像に難くない。また、親がビッグだと、なんらかのおこぼれにあずかろうと偽りの優しさで近づいてくる人もいるので、健全なオトナに育ちにくいのではないかと思うのです。日本においても、大スターの子で犯罪に手を染めたり、自死するケースはそれほど珍しくありません。
次女・シャーロットと三女・ルーが明かした母への複雑な思い
そんなわけで、長女ケイトの人生も大変なことがあったと推察されますが、社会的成功を収めた次女シャーロットも母親に対しては思うところがあったよう。現在公開中の映画「ジェーンとシャルロット」では、シャルロット自身が監督を務め、母への複雑な思いを語っています。三女のルーは、自分が育った家庭について、こう語っています。「ママは自分の父親と兄、そしてゲンズブールを深く愛していた。その三人のことを24時間話していた。でも、私のパパと暮らしていたの。それに毎晩、ゲンズブールが家に来ていたわ」。自分の妻が親兄弟や前夫の話ばかりしていて、楽しい気持ちになる夫がいるわけがありません。ジェーンが夫であるドワイヨンをないがしろにすることは、夫を傷つけるだけでなく、その娘のルーを軽んじていると同じことにジェーンは気づかなかったようです。スターというのは往々にして無神経な部分があるようですが、三人の娘たちは「スターの娘」として、言うに言えない苦労を抱えていたようです。
女性が“自然体で生きる”ことはむずかしいが…
女性誌はいつの時代も「自由に生きる」ことをテーマにし、自然体に生きている(ように見える)、もしくは新しい生き方をしている(ように見える)女性芸能人をミューズとしてあがめます。多様性の時代が来たと言われていることもあって、「他の人には理解できないかもしれないけれど、これがウチの形です」と、自分たちの自由について説明する人は、今後増えていくことでしょう。
もちろん、個人が自由に生きることを否定するつもりはありませんが、私はそもそも人が自然体で生きること自体、無理なのではないかと思うのです。なぜなら、生きるということは何かに縛られることだから。スターと呼ばれる人でも、数字(売上)をあげなければただの人に転落します。人より多くの物を持っている人ほど責任も伴うわけで、そういう人ほど自然体からは遠い生活を余儀なくされるのではないでしょうか。ただし、ここで忘れてはいけないのが、女性と男性の違いです。女性誌は、自由に生きる人や自然体な生き方をしている人を常に探しているのに、男性向けの読み物では、そんな特集はない。それは、女性が結婚して子どもを持つと、男性に比べて自由度が断然低くなってしまうからでしょう。女性側からすれば、「二人の子どもなのに、どうして私だけが我慢するのだ」とモヤモヤするのは当然だと思いますし、女性差別と言えるのかもしれません。このあたりのことは、主に政治で制度から改善していく問題で、私たち有権者にできることは、選挙で自分たちの気持を伝えることでしょう。
一方、子ども側から見ればどうでしょうか。母親が自分との時間を作ってくれなかったり、パートナーを頻繁に変えたり、前夫と親しくしすぎることを嫌だと思う気持ちは当然だと思いますし、それが女性差別だと私は思いません。女性の自由はもちろん大事ですが、子どもの気持ちも決してないがしろにしてほしくない。自己肯定感という言葉がはやっていますが、「私は望まれて生まれて来た」と子どもたちに思わせることを忘れてほしくないと思うのでした。