オリンピックやワールドカップなど、大きな試合を終えた後のアスリートのインタビューを聞いていると、“自信”という言葉を使う人が多いことに気づかされます。勝因として「自信を持ってやれたから」と言う人もいれば、「負けたけれども、自信がついた」という人もいる。
何だかおかしいと思いませんか? 自信を持ってやれたから勝てたとか、負けたけれども自信がついたと言いますが、一般的に考えるのなら、自信とは勝てたから身につくものなのではないでしょうか? 心理学では、自分に自信がある人とない人とでは同じことをやっても成功率が違う(自分に自信がある人のほうが成功している率が高い)とされていますが、いやいや、だからその自信をつけるためにどうしたらええっちゅうねんという話なわけです。
“元本”に恵まれない人は、ぼーっと生きていくしかないの?
自信だけでなく、愛とかお金というのは“元本”が必要なものだと私は思います。たとえば、お金がない人が、自分でビジネスを起こしてお金持ちになりたいと思った時、必要なのは資本(お金)なのです。大きく儲けようと思うなら、大金を投資しなければリターンが少ない。またビジネス用の資金が少なければ、借金をする必要が出てきますし、ビジネスが失敗すればさらに貧乏になってしまうでしょう。愛も一緒です。
シングルマザーが再婚したら、夫が血のつながらない子どもを虐待したあげくに殺してしまったという悲しい事件は後を絶ちませんが、調べてみると再婚夫や母親自身も子どもの頃に虐待されていたと報じられることは珍しくありません。暴力をふるわれて愛情が欠乏した状態で大きくなり、親になって子どもをかわいがりたいと思っても、元手がないので愛を生み出すことができないのでしょう。こういう状態を表すかのように、聖書のマタイによる福音書には「富める者はますます富み、貧しき者は持っている物さえとりあげられる」という一節がありますが、条件に恵まれた研究者がいい業績を上げることは「マタイ効果」と呼ばれています。
心理学ですら“親ガチャ”を認めているわけですが、それでは、恵まれない人は、指をくわえてぼーっと生きていくしかないのでしょうか。私はそうは思いません。ただし、コツがいることは確かで、そのコツを落語界のレジェンドで、亡くなった立川談志師匠のお言葉を借りて解説して参りましょう。
落語界の伝統に反旗。「立川流はイケている」という雰囲気に
落語ファンをのぞけば、立川談志師匠にピンと来る人は多くないかもしれません。談志は落語家若手四天王に数えられ、今も続く演芸番組「笑点」(日本テレビ系統)の司会を務めるなど、落語家として確たる地位を築き上げますが、落語協会を脱退し、落語立川流を名乗り、家元となったことに世間は驚かされます。
師匠は弟子の生活の面倒を見るのが当たり前とされていたのに、立川流では弟子が家元にお金を払うのです。そんな師匠は聞いたことがないと話題になったそうですし、伝統の世界に反旗を振ったわけですから、風当りも強かったようです。しかし、談志師匠の弟子・立川談春の「赤めだか」(扶桑社)によると、ビートたけしや高田文夫など“時の人”が立川流に入門したことで、世の中も立川流はイケている、通好みという雰囲気になったそうです。
弟子の談春と志らくに対する談志の態度・待遇の差
談志の弟子と言えば、今では俳優としても活躍している立川談春と、立川志らくがいます。談春は志らくより入門が早く、先輩にあたります。落語界は縦社会ですから、当然、昇進も談春のほうが先と思われていましたが、談志は志らくをかわいがり、談春に「志らくに教われ」とまでいう始末。真打になったのも、志らくのほうが先でした。
これで志らくが誰から見ても認めざるを得ない優等生タイプだったのならよかったのかもしれませんが、同書によると、志らくは周囲とコミュニケーションを取るタイプではなく、着物すら畳めない、行儀見習いのために行かされる魚河岸のバイトも拒否するなど、やりたい放題。先輩が後輩に抜かれて嬉しいわけはなく、談志のえこひいきに感じられ、談春は屈辱を味わうことになります。その胸のうちを、談志はお見通しだったのでしょう。談春に「おまえに嫉妬とは何か、教えてやる」と言って、こんなことを言ったそうです。
立川談志の名言「現実は正解なんだ」
「己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱みを口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と言うんです」
「本来なら相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人間はなかなかそれができない。嫉妬しているほうが楽だからな」
「よく覚えておけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方がない」
つまり、談志師匠にとっての嫉妬とは「人を悪く言う一方で、自分は目標のために何もしないこと」を指すと言えるでしょう。それでは、なぜ何もせず、漫然と過ごしてしまうのか。それは「現実は正解だ」と思えないからだと思うのです。あの上司はえこひいきをしている、あの子は家がお金持ちだからだ、顔がかわいいからだというように理由をつければいくらでも見つかるでしょうし、実際、世の中とは不公平な場所ですから、それらの分析が全く的外れということもないと思います。ただし、文句を言って何もしなければ、自分との差は広まるばかりなのも事実なのです。
最近「人と比べない」ことが「いいこと」のように扱われ、私は首をひねってしまうのです。確かに目的もなく、のべつ幕なしに人と自分を比べていたら、落ち込んでしまうかもしれません。けれど、○○をしたいという目標を持っていたとして、自分のそばに○○が出来ている人がいるなら、その人からヒントを盗むのが一番の近道だと思うのです。
談春が気づいた師匠の言葉の真意
上述した談春は、談志が志らくをそんなに認めるなら、志らくと仲良くなろうと決めて接してみたところ、志らくの落語のセンスは、知識に裏付けられたものだと気づいたそうです。また、これは志らく本人がバラエテイ番組で言っていたことですが、志らくは談志が好きな音楽や映画などはすべてマスターしたそうです。師匠の立場に立ってみると、自分の好きなものについて詳しい弟子とそうでない弟子、どちらがかわいいかは言うまでもありません。このように近づいて相手と話して見ると「だから、この人はすごいんだ」と思えるところが、きっと見つかるはず。その突破口を探すために、あえて「人と比べる」ことをしてほしいのです。
「人を比べる」ことを避ける心理の一つとして、おそらく「現実を見たくない」とか「負けを思い知らされる」ことがあるのではないかと思います。しかし、人生は長いですから、仮に今負けていたとしても、来年もそうだとは限りませんし、先のことなど誰にもわからないのです。こうやって考えてみると、自信をつけるのに大事なものは、自己肯定感ではなく、自分をそして現実を見つめる“勇気”なのかもしれません。