• イラスト:井内愛

友人が小学生女子である娘ちゃんに「そろそろ髪を切ったら?」と言ったところ、「いやだ、髪が長いほうが自己肯定感上がるの!」と返されたそうで、自己肯定感という言葉はここまで浸透しているんだと驚いてしまいました。

自己肯定感ブームは下火になる気配すらありませんが、誤った意味で使われていることもあります。自己肯定感を「自分を好き」とか「自分に自信がある」という意味合いで使っている人がいますが、正しくは「社会的なブランドがない、素のままの自分でもOKと思えること」を指します。たとえば、オリンピックの金メダリストになれば「私ってすごい!」と思えるでしょう。それでは、もし怪我をして、競技が続けられなくなったらどうでしょうか。「競技ができない私は、生きている価値がない!」などと思わず、「競技はできなくなってしまったけれど、自分は自分だ。これでよし」と思えることが「自己肯定感が高い」状態です。

「自己肯定感」と「自己効力感」

「自己肯定感さえあれば、人生すべてうまくいく」と書いている人もいるようですが、私は悪いオトナなので、そんなわけないだろと思うのです。働かなくても食べていけるという人はほんの一握りで、ほとんどのオトナは社会に出て経済活動をしなくてはいけないわけです。お金をもらうためには成果をあげなくてはいけませんし、他人の評価からも逃げることはできません。「何があっても、私は私」と感じられるのは大事なことですが、人から評価されなくてもいい気持ちでいられるというのは、難しいことだと思います。

ところで、みなさんは自己効力感と言う言葉をご存じでしょうか。これはスタンフォード大学・心理学教授のアルバート・バンデューラ博士が提唱した理念で、一言でいうと「自分はやればできるんだと信じられること」を指します。自己効力感が高いと「やればできる」と思えるわけですから、新しい仕事などに挑戦することができます。けれど、挑戦しても100%の確率でうまくいくとは限らない。「やってみたけれど、うまくいかなかった」ということは誰にでもありますし、むしろ、そのほうが多いものかもしれません。こういう時こそ自己肯定感の出番で、「仮にうまくいかなかったとしても、私は私」と思えるからこそ、失敗しても落ち込みすぎずにもう一度挑戦できるのです。自己効力感と自己肯定感は車のアクセルとブレーキみたいなもので、この二つでバランスを取り合っているのだと思います。

ビートたけしの名言「あんばいが悪い。」

バランスにまつわる、ビートたけしの名言を紹介しましょう。「ビートたけしのオンナ論」(サイゾー)において、シモネタとあけすけな話を披露して注目を浴びたものの、トラブルがあって芸能活動をしていない女性タレントについて、面白いと評価しながらも「あんばいが悪い」とコメントしています。あんばいとは物事の具合、加減、状態を指す言葉で、漢字で書くと塩梅です。塩と梅と言えば、梅干しを作るときに塩加減というのはとても大事です。多すぎるとしょっぱくて食べられたものではありませんが、少なすぎると腐ってしまって、保存に強いという梅干しの特性が失われてしまうのです。自分好みの味で、かつ梅が痛まない程度にバランスをとって塩の量を調整するのが、まさに塩梅というやつでしょう。

女性タレントがシモネタやあけすけな話をした場合、品がないと眉をひそめる人もいるでしょう。今のテレビはコンプライアンスを強化していますから、そういう話題そのものが好まれないと思う人もいるかもしれません。しかし、テレビをよーく見ているとわかるのですが、腕のある人気者は、問題がありそうな話題を、問題にならないようにうまく笑いに変えているのです。一般的によろしくないとされる話題を扱ってなぜ問題にならないかというと、そもそも、人はそういう下世話な話題が嫌いではないことが上げられるでしょう。芸能人に関する暴露動画がものすごい再生回数を記録したことでもわかるとおり、なんのかんのいって、こういう下卑た話はウケるのです。

だからといって、タレントがそれを前面に押し出しすぎると視聴者は飽きてしまいますし、「この人は何でもペラペラ喋る人だ」と思われて、視聴者や共演者の信用を無くしてしまうこともあります。視聴者に嫌われずに、そういうネタを面白く話せる人というのは、「ここまでは言っていい」「これ以上はダメ」というはっきりした基準を持っているのではないかと思うのです。その基準を作るのは、自分にとっての倫理観、人生観ではないでしょうか。

ビートたけしと言えば、芸人として成功を収めたあと、映画界に進出。レジオンドヌール勲章を受章するなど、世界的に高い評価を得ています。かつてはピアノや茶道も習っていたようですし、最近は小説も執筆しています。知を重んじた活動にシフトを移すのかというとそうでもなく、「勲章を取った人間が、バカなことをやるから面白い」とテレビで言っていたので、彼の中ではお笑いと芸術を両立するのが当たり前、どちらが上というような概念はないのだと思われます。

たけしは「バカ論」(新潮社)の中で、明石家さんまを「しゃべりの天才」と評価しながら、「ただ、いかんせん教養がない。そこが限界かもしれない、と思ったりする」と書いています。番組で専門家と共演したとき、教養がないので専門的な話についていけないからというのがその理由ですが、これは逆に言うと、彼がアカデミックな話も笑いの一部と捉えていることがわかります。知識が増えるとおのずと視野は広がりますから、それがある時は笑いとなり、ある時は映画など創作活動のイマジネーションにつながっていくのでしょう。知識をどう使うかも塩梅ではないでしょうか。

不安定でストレスフルな世の中ですから、「これはダメだ!」と特定のものを必定以上に叩いたり、逆に「これさえあれば大丈夫」と一つのものをことさらにプッシュする傾向は今後も続くでしょう。しかし、世の中の出来事をいいと悪いにわけることは意味がなく、すべてはバランスもしくは塩梅なのかもしれません。その塩梅を身に着けるのに必要なのは、自己肯定感というような生育環境由来のものではなく、万人が平等に挑戦できる“勉強”なのかもしれないと思うのでした。