※この原稿は2019年に執筆されたものです。

二谷友里恵さんの初婚相手は、ヒロミ・ゴー。そのヒロミの元カノと言えば、松田聖子ですが、彼女を見ていると、常識ってなんだろうと思うのです。

今をさかのぼること30年前。結婚した聖子が引退もせず、幼い子どもを実母に預けて全米進出を発表した時、マスコミは彼女をバッシングしました。「結婚したら、仕事をやめるのは当たり前」「子どもは他人に預けるのは愛情がない。自分の手で育てるのが常識」だったからです。聖子が叩かれていたころ、ある女性論客は「これは男女差別である」とはっきり述べました。

「男が女房子供を日本において、アメリカで一旗揚げてくると言ったら、『それでこそ男だ』とほめられただろう。女が同じことをすると、母親のくせにというのは、男女差別以外の何物でもない」と理路整然と書いたことが記憶に残っています。

当の聖子はそんな常識にとらわれず、アメリカにわたり、白人男性と不倫をしています(のちにこの青年に暴露本を書かれてしまいます)。当時はぼっこぼこに叩かれましたが、今考えてみましょう。

・結婚しても仕事をやめない
・子どもを預けて、仕事をする
・女性だって不倫をする

これらは、すでに現代ではあたり前のことです。結局、常識というのは、一種の思考停止もしくは怠慢ですから、警察のお世話にならず、自分で食べていけるのなら、破ってしまったほうが勝ちという部分があるのではないでしょうか。

山口百恵さんは人気絶頂時に結婚、引退することで、「結婚するとは、自分のすべてを引き換えにできる相手と巡り合うこと」といった具合に、神聖で不可侵なイメージを大衆に与えました。しかし、聖子は独身時代のスタイルそのままに、既婚者としての特権も手に入れていく。そんな聖子を週刊誌は「握力の強い女」「すべてを手に入れた女」と書いたものでした。

さすがの私も若い時はここまでひねくれていませんから、なるほどなぁと思ったのですが、今になって思うのです。聖子は、案外欲しがらないオンナかもしれないと。

聖子が「まったく欲しがらないもの」とは、何だと思いますか? 知らんがなという声が聞こえてきましたので、早々にお答えしますと「オンナ友達」なのです。

「蒼い時」(集英社)によると、山口百恵さんは桜田淳子と仲良くしていたそうですが、やはり賞レースなどではライバルですから、どこまで本音を話したらいいのかわからなかったそうです。「引退して、やっと本当の友達になれるかも」と書いていました。

芸能界はつきつめていえば、みんなライバルですから、友達を作るのは難しいのかもしれません。しかし、そうはいっても。やはり同業で同性のオンナ友達がいたら、ちょっとした世間話ができて楽しいはずです。しかし、聖子はアイドル時代から「芸能界に友達はいません」と公言しています。スターである聖子と親しければ、何かおこぼれに預かれることもあるでしょうから、聖子と友達になりたかった芸能人は多いと思います。にもかかわらず、聖子が「芸能界に女友達はいません」と公言するのは、聖子自身が「特にオンナ友達はいらない」と考えているからではないでしょうか(余談ですが、オンナ友達はいないものの、モト冬樹を親友と言っています)

松田聖子の名言「オトコっぽいです」

  • イラスト:井内愛

聖子は自分を「オトコっぽい」と自己分析しています。どんな行動を指して「オトコっぽい」と言っているのかには触れていませんでしたが、女性誌が定期的に「オンナの友情」の尊さやもろさを特集していることから考えると、「オンナ友達を欲しがらない」というのは、オトコっぽい行為とみていいと思います。

オンナ友達とのつきあいから生まれる共感や承認は、とくにつらいことがあった時には、大きな慰めとなってくれるでしょう。にも拘わらず、「友達はいらない」というのは、聖子が他人の意見なんて必要ないという強さを持っていることの証明なのではないでしょうか。

すべての物事には、長所と短所があります。オンナ友達とのつきあいは、明日への活力となってくれますが、心地よすぎると変化を恐れてしまったり、相手の意見に引っ張られてしまうこともあります。その意見が正しければいいのですが、友達が悪意的にリードすることもないと言い切れません。聖子が30年前の常識を打ち破り、今では「当たり前」となったことにしれっと挑戦することができたのは、「ひとりだったから」ではないでしょうか。

オンナ友達はいませんが、聖子の傍らには常にオトコがいました。ヒロミ・ゴーと破局した後は、俳優・神田正輝と電撃結婚し、噂になった男性は上述した白人男性や、近藤真彦(聖子は「私たちはオトコっぽい関係」と否定)、バックダンサーだったアラン・リード、歯科医師(再婚)、原田真二、マネージャー、そして現在の夫である大学病院勤務の歯科医師(再々婚)と遍歴を重ねていきます。

こう書くと、オトコ依存のような感じもしますが、聖子はオトコとうまくいかなくなって身体を傷つけたり、仕事に穴をあけたりすることはないのです。暴力をふるうようなオトコともつきあいません。つまり、オトコはエサ。カイコが桑を食べて美しい絹を口から吐き出すように、聖子はオトコを食して歌を歌い続けているのです。

女性たちは時に、「私はまだあれが欠けている」「これを持っていない」と言う言い方をします。「より多くのものを、持っている人が勝ち」という価値観の根っこにあるのは、「人が私を見ていて、私は審査されている」という自意識だと思うのです。一方の「欲しいものを手に入れる」「自分にとって価値あるものを手に入れる」という聖子の生き方は、不思議なことに自意識と正反対です。

オトコを欲しがる人生がアリかナシかは別として、芸能人という「見られる」商売でありながら、「私が欲しいと思うんだから、人がどう言おうと関係ない」という強さ。オトコでもオンナでもなく、聖子はやっぱりスターなんだと言わざるを得ないのです。

※この記事は2019年に「オトナノ」に掲載されたものを再掲載しています。