※この原稿は2019年に執筆されたものです。

向田邦子センセイの欠点、それは脚本の出来上がりが異様に遅かったことだそうです。俳優が集まっても、肝心の脚本が出来ていないということもあったそうですが、その際に、「ストーリーさえ考えてくれれば、後は適当にこっちでやるから」と言って向田センセイを激怒させたのが、女優・樹木希林さんだったというエピソードが残っています。

ご存知のとおり、希林さんは昨年の秋にお亡くなりになりましたが、希林さんのインタビューを集めた「一切なりゆき」(文春新書)が売れに売れています。

超簡単に振り返る、樹木希林の人生

ここでいつものように、希林さんの人生を振り返ってみましょう。

希林さんのお父さんは、お母さんの7歳下。お母さんは三度目の結婚だったそうです。お父さんは琵琶奏者でしたが、生活力はなく、お母さんがカフェを経営して、家族を養っていたようです。薬剤師を目指していた希林さんですが、受験の直前にスキー場で骨折。文学座の試験を受けて合格します。「芝居には興味がなかった」という希林さんですが、見る人から見れば、その才能は一目瞭然だったのでしょう。大女優・杉村春子に「あんた、勘のいい子ねッ、来てちょうだい」と付き人にノミネートされ、小津安二郎監督の「秋刀魚の味」の撮影を見学するなど、得難い経験をします。

映画を中心に活動していた希林さんですが(この時に、最初の結婚をして離婚しています)、テレビドラマに進出。「寺内貫太郎一家」(TBS系)で、31歳にしておばあさん役を演じ、好評を得ます。この前の年には、ミュージシャン・内田裕也と再婚を果たし、也哉子さんが生まれますが、夫婦仲はすぐに悪化。別居していましたが、内田が勝手に離婚届を出し、これを不服とした希林さんが離婚無効の訴訟を起こし、勝利しています。ちなみにこの時の希林さんの弁護士は「あんなに嫌がってるんだから、別れてあげれば」と言ったそうです。法律の専門家として、それなりに男女の修羅場を見てきた弁護士さんにとっても、別居していながら、離婚はしない希林さんが理解できなかったのかもしれません。

結局、希林さんは終生離婚することもなく、かといって同居をすることもありませんでした。女優業だけでなく、フジカラーやピップエレキバンのCMで注目を集め、郷ひろみと出したシングル「林檎殺人事件」は大ヒット。本業でも日本アカデミー賞優秀助演女優賞、日本放送映画藝術大賞最優秀助演女優賞、紫綬褒章を受賞します。がんであることを公表しながらも、最後まで映画に出演し、女優人生を全うしたのでした。

「朝のテレビ小説なんて、私らみたいな、雑な、暇な二流の役者がやるもんだ」「後ろを通る役だけでも、私は全然堕ちたっていう感じがしない」など、プロ意識ややる気を前に出さない希林さんの言葉は、今の若者にも響くかもしれません。しかし、肝心なことを見逃しているのではないかと思うことがあるのです。

樹木希林の名言「私は実人生では、男に捨てられた実感がないんですよ」

  • イラスト:井内愛

希林さんは、30代の初めから“老け役”をはじめ、亡くなるまで“おばあさん”を演じ続けた。これはどういうことかというと、40年間、おばあさん役であり続けたということ。つまり、希林さんはおばあさん役のトップだったということではないでしょうか。

日本のトップ女優と言えば、吉永小百合(以下、サユリ)を思い浮かべる人は多いでしょう。彼女は本格的な映画デビューを果たした60年代から、現在に至るまで50年近く映画で主演を務めています。主役のトップがサユリなら、わき役や老け役のトップが希林さんだと思うのです。主役とわき役では、主役のほうがより重要だと考える人は多いでしょう。確かにそうですが、前に出て顔と名前を売るのが芸能人の仕事として考えるのならば、主役を狙って仕事が来ずにくすぶっているよりも、わき役としてバンバン作品に出たほうがトクです。

今でこそ、CMは実入りのいい仕事として芸能人に人気ですが、希林さんの時代は俳優がCMに出るなんて恥ずかしいこととされていたそうです。しかし、希林さんは「みなさんがおやりにならないなら、やらせていただきます」と引き受けたそうです。それは「すべてのものに対して、絶対にこうでなければいけないという鉄則はない」という主義に基づいて引き受けたのかもしれませんが、知名度を高めるという観点で考えると、CMほど効率的なものはありません。さらにお金だってもらえる。意図的であったのか、結果的にそうなったのかわかりませんが、希林さんは戦わずして目的を遂げる達人のようにも思えるのです。

希林さんは「欲がない」のではなく、「トップだから欲を出す必要がない、余裕がある」のではないでしょうか。しかし、希林さんはそこを感じさせない。それは、希林さんが自分を小さく見せる天才だと思うのです。

希林さんの自信が垣間見えるのが、「私は実人生では、男に捨てられた実感がないんですよ」というお言葉。離婚したいという男の申し出をがんとして受け入れず、裁判まで起こしている、つまり半分捨てられたという見方もできると思いますが、希林さんはそう思っていない。

なぜなら、二人のトラブルの源は愛情問題ではなく、経済的なものから生まれているから。希林さんの死後、娘の也哉子さんが内田裕也から希林さんへのラブレターを見つけたそうです。結婚一周年を迎えての手紙には、愛の言葉と、経済力がないためにトラブルを起こしてすまないと謝罪がしたためられているのです。

金銭的な苦労というのは、カップルの片方に甲斐性があるのなら、そう難しくない問題です。希林さんは20代の頃から不動産を買い始め、多くの物件から家賃収入を得ていたそうです。「女性セブン」(小学館)によると、同誌が把握しているだけで、都内に8軒もの不動産を所有していたそうです。夫婦の財産は共有ですから、それは内田裕也のものでもある。食べさせなくていい上に(別居をしていましたが、生活の面倒は希林さんが見ていたそうです)、也哉子さんという子どもも育ててくれて、あまつさえ財産も残してくれる。内田にとっては仏さまのような存在で、別れるわけがありません。

変幻自在な希林さんは、水のような存在ではないでしょうか。水がなければ人は生きていけません。小川のせせらぎのように適量であれば、人の心をなごませますが、ゲリラ豪雨のように大量に降れば、人間の生活を一瞬にして破壊する力も持っている。

仏さまのようにも扱われる希林さんですが、優しさと激しさを、ぎりぎりのところでバランスを取っているように見えるところに、私は魅力を感じるのでした。

(追記) 本稿を書いたのは3月13日でしたが、内田裕也さんが17日に肺炎のため、お亡くなりになりました。少し遅れていくあたりが、樹林さんに頼っていた裕也さんらしいと言ったらいいすぎでしょうか。ご冥福をお祈りします。

※この記事は2019年に「オトナノ」に掲載されたものを再掲載しています。