インドで最下層の貧しい人々に無償の愛を注ぎ続けた修道女、マザー・テレサ。バチカンから聖人認定もされています。
ここで、マザー・テレサの人生を振り返ってみましょう。
超簡単に振り返る、マザー・テレサの人生
旧ユーゴスラビアに生まれたテレサは、裕福で信心深い両親の間に生まれました。テレサには兄と姉がいます。18歳になったテレサはアイルランドに行き、ロレット聖母修道会に入ります。その後、インドに派遣され、中流の子女が通う学校で教師をしていましたが、もっと貧しい人のために働きたいという気持ちが強くなり、修道会を離れます。その後、神の愛の宣教者会を設立。身寄りもなく死を待つばかりの人、ハンセン病患者、エイズ患者、未婚の母のための家を作り、働くのです。そういった功績が認められ、ノーベル平和賞を受賞しました。
しかし、彼女の功績を疑う声もあるのです。1995年にクリストファー・ヒッチェンズが記した「The Missionary Position: Mother Teresa in Theory and Practice」の中から、いくつかご紹介しましょう。
1.貧しい病人を受け入れるものの、医者に診せなかった(けれど、自分が病気になったときは、近近代的な施設で、治療を受けていた)
2.1.は資金的な問題だと解釈されがちだが、テレサは寄付金集めに熱心で、資金難ということはないはず。時に国際社会から批判されるような独裁者からも寄付を受けたが、その使い道は不明。
3.インド国内での災害時にシスターを派遣しても、カネは出さない。
キリスト教界の世界的エースですから、バチカンやその周辺はノーコメント。著者が出版後に亡くなったこともあり、信じるも信じないもあなた次第といった類の話になりつつあります。
さて、上述したことが事実だとしたら、みなさんはどう思われるでしょうか。聖女ぶっておきながら、裏で汚いことをしていたなんてとショックを受ける人もいるでしょうし、そんなことがあるはずないと憤る人もいるかもしれません。
私に言わせるなら、みんな、愛に期待しすぎ。
寄付金を集めなければ、シスターたちを食べさせることも、慈善活動をすることもできません。災害時にカネを出すのは基本はインド政府の仕事ですし、どこに寄付をするか決めるのは、テレサの権利。責められるのはおかしいと私は思います。
私はカトリック系の小学校に通っていたので、小学校低学年の時にマザー・テレサの授業を受けたことがあります。清らかな心を持つ女性として紹介されたテレサですが、子どもの頃からひねくれていた私は、ある矛盾を感じていたのです。
テレサの有名な言葉に「世界平和を願っているのなら、まず自分の家族が相互に愛し合うことから始めてゆきましょう」というものがあります。家族は一番小さな社会ですから、世界中の小さな社会がすべて幸せになれば、確かに平和が訪れるでしょう。
しかし、そういうテレサは修道女となり、遠い遠いインドに行ってしまった。テレサの家は信仰心の厚い家庭だったそうですから、ある意味当然の成り行きかもしれませんが、親兄妹は口に出せない寂しさもあったのではないでしょうか。
私はテレサの行動に矛盾があると言いたいのではないのです。全方位を丸く収める愛なんてないと思うのです。
マザー・テレサの名言「私にとって幸せというものは、内的な深い平和を意味しています」
愛は崇高なものだと信じられていますが、実は暴力と紙一重だと思います。健康な大人と、死が近く、ぎりぎりで生きている病人では、まったく力関係が対等ではない。愛に基づいたつもりでも、相手には支配でしかなかったというのは、よくある話です。
愛が何かと聞いて、即答できる人はほとんどいないのではないでしょうか。そんな日本の “愛”の転換点になったのは、酒井順子の「負け犬の遠吠え」(講談社文庫)でしょう。「どんなに仕事が出来ようと、美人だろうと、30歳以上で結婚していない女性は『だって愛されていないじゃん』と言われる負け犬」という酒井センセイの主張は社会現象を巻き起こしましたが、ここでのポイントは、愛の証拠となるのが結婚でという社会的な契約であり、同棲や恋愛経験の有無ではないことだと思うのです。
酒井センセイの定義によれば、30歳以上の独身女性は「愛されていない」ことになりますが、仮に結婚してもすべての夫婦が「私は愛している、愛されている」と感じているとは限りません。離婚するということは「愛がなくなった」と見てもいいはず。つまり、日本のほとんどの女性が「自分は愛されていない」と一度くらい悩んだ経験があることになるのではないでしょうか。
それでは、「私は愛されていない」と思ったら、どうしたらいいのでしょうか。マザー・テレサと同じく、インドの英雄であるお釈迦さまは、愛についてこう言っています。
愛欲よ、わたしは汝の元を知っている。
愛欲よ、汝は思いから生じる。
愛欲というのはセックスを含んだ愛のことで、聖書やテレサの言う愛と必ずしも一致するとは限りませんが、面白いのはお釈迦さまは「愛されたい」という気持ちは自分の心の中から生まれると言っているところです。
「愛されたい」と思うのは、「恋人がいないから」「相手が冷たい」といった風に、私たちは条件や相手の問題だと思いがちです。しかし、本当の理由は自分の心の内部にあるという考え方は、目から鱗ではないでしょうか。また、お釈迦さまは同時に「愛は苦しみを生む」とも言っています。
「愛されたい」という気持ちをお釈迦さまの言うとおりに、解釈してみましょう。「愛は苦しみを生む」ということは、「愛されたい」と思うのは「今、愛している、もしくは愛されている、もしくは愛された記憶がある」から、苦しむのではないでしょうか。また、生活に困ったり、家族や自分が病気だったりした時、「愛されたい」と考えている余裕はないでしょう。となると、「愛されたい」と願っている人は、生活面でも恵まれている証拠。何も持たないから、苦しむのではないのです。
お釈迦さまは「この世は心により動かされ、また、心により悩まされる」とも言っています。すべての苦しみの根源は、条件ではなく心。奇しくもマザー・テレサも「私にとって幸せというものは、内的な深い平和を意味しています」と、幸福が心の中にあると明言しています。
信じる神さまは違っても、苦しみも喜びも自分の中という言葉は、10代の頃から「愛され」を強いられ、条件で格付けされてきたアラフォー世代が取り入れるべきものなのかもしれません。
※この記事は2018年に「オトナノ」に掲載されたものを再掲載しています。