"せともの"の街、愛知県瀬戸市。この街は火の街・土の街と呼ばれ、昔から真っ白な陶土や自然の釉薬が採れるため、やきものの産地として栄えてきました。「ものをつくって、生きる」そのことに疑いがない。それゆえ、陶芸に限らず、さまざまな"ツクリテ"が山ほど活動する、ちょっと特殊なまちです。瀬戸在住のライターの上浦未来が、Iターン、Uターン、関係人口、地元の方……さまざまなスタイルで関わり、地域で仕事をつくる若者たちをご紹介します。
Vol.8 coffee&cake NISSIN 4代目 浅井梨歌
1945年創業、地元に愛される喫茶店「喫茶 NISSIN」。4代目の浅井梨歌ちゃんは、2年半前に名古屋から瀬戸へとUターンし、後を継ぐことに決めました。以前は、銀座に旗艦店を持つ宝石店で働き、営業成績トップ。20代にして、全国の店舗を飛び回り、販売の指導をする忙しい日々でした。けれど一転、一生続ける仕事として、家業の喫茶店を継ぐことに。その理由とは?
母娘ふたりで営む「喫茶NISSIN」
「喫茶NISSIN」は、昭和初期から商店街の一部が形成されたという「せと末広町商店街」の中にあります。モーニングの時間帯に訪れると、いつもの顔ぶれがやってきて、おしゃべりをしたり、本を読んだり、それぞれの時間を過ごしています。
常連さんたちからは「梨歌ちゃん、梨歌ちゃん」と親しまれ、日々、「頑張ってるね!」という声を浴びるように応援されています。今は、3代目のお母さんに喫茶店全般のことを学びつつ、外観の飾り付け、看板づくり、メニューの考案と、できることから始めています。
始まりは「日進茶房」から
「喫茶NISSIN」の歴史を振り返ると、お店を立ち上げたのは、梨歌ちゃんのひいおばあちゃんにあたる加藤たせさん。
「たせさんは、愛知県日進市の出身で、戦前に瀬戸でろくろ師をやっていたおじいちゃんのところにお嫁に来たんです。ろくろ師はろくろをまわす専門職で、とても腕がよかったそうですが、戦争で軍事工場に行くことになり、仕事がなくなってしまった。そこで、たせさんが終戦後、『自分で商売をやりたい! 』といって、お店をつくったの。ガッツあるの、たせさん(笑)」
ものがない時代、日進市にある実家のみなさんが、たせさんを助けようと、ものをかき集め、ところてんなどを販売する甘味処としてスタート。そのとき、実家や日進市のみなさんに大変お世話になり、今に続く「NISSIN」という名前があるといいます。
その後、たせさんの息子・秀雄さんと、豊田市からお嫁にやってきた多美子さんにバトンタッチ。甘味処だけでは生きられないと、「日進鶏肉店」へお店を転換。1960~70年代、瀬戸は景気がよく、かしわや卵が飛ぶように売れました。ところが、秀雄さんは46歳のときに急逝してしまいます。
しばらくそのまま続けていたものの、鶏肉店は市場が男社会のために立ち行かず、すでにお店を手伝っていた秀雄さんの娘、当時24歳の姉・美栄子さんと、当時21歳の梨歌ちゃんの母・真由美さんが、姉妹で立ち上がります。その後、「日進鶏肉店」を閉店させ、現在の「喫茶NISSIN」を立ち上げることを決めるのです。
およそ40年前、瀬戸で喫茶店といえば、おじさんがタバコを吸って、打ち合わせするような、ちょっと怖い場所。それゆえ、「嫁入り前の若い子が喫茶店を開くなんて、とても賛成できない!」とご近所のみなさんから猛反対を受けます。
けれど、ふたりの意志は強く、大工さんに「若くて可愛い女の子が、高校の制服をデート用のワンピースに着替えるようなトイレがあって、お茶がゆっくりできて、デートもできる場所をつくるんだ!」と説得。理解してもらうために、名古屋や東京まで連れて行って、お手本のカフェを見てもらい、ふたりの理想のカフェをつくってもらった。店先ではクレープも売り、その結果、おしゃれ好きで若いふたりが立つことで、話題になり、多くの人がやってきてくれたといいます。
それから月日が経ち、美栄子さんは他所の街へお嫁へ行き、真由美さんが後を継ぐことに。1990年に梨歌ちゃんが誕生します。梨歌ちゃんは幼い頃から多くの時間をお店で過ごしつつも、仕事を決めるとき、お店を継ぐという発想はなかったといいます。
「『喫茶店を継いで』といわれたことも一度もないです。でも、サービスやものを提供する家族に囲まれて育ったから、自然と何かを売ったり、接客したりを仕事にしたいな、とは思っていました」
名古屋学芸大学短期大学部のファッション造形モデル科を卒業後、入社した先は、銀座に旗艦店を持つ老舗宝石店。仕事は結婚指輪や婚約指輪の販売で、丸6年勤めました。そのキャリアは順調で、25歳で店長、20代後半には約600人の社員がいる中、販売数と決定率でトップクラスとなり、全国を飛び回って販売のアドバイスをする立場になっていきます。
「実家を出て、名古屋でひとり暮らしをしていたものの、今日は京都、明日は浜松、と行く県が全部違いました。土日だけは銀座本店と決まっていて、一日売り上げ目標が高額な日があるんです。その売り上げを確保するためには、お客様に即決してもらう必要があって、『今、決めましょう』というのを一日10回くらい続けていると、気がめいってしまって……。もちろん、いいものだから売りたい。でも、売れないことが怖すぎて、夕方ぐらいになると、泣けてきてしまう。一番になると孤独です」
代わりがいない仕事をする
前職ですっかり燃え尽き、何をしようかなと思ったとき、お母さんがどういうふうに喫茶店をつくってきたのか、初めて興味を持ったといいます。自分で喫茶店をつくりたいと思って始め、お客さんの期待通りのものを提供しつづける。そんなお母さんの働き方が心に響きました。
「家族のみんなが続けてきた喫茶店を、変わらずに続けていきたい。お給料は、それまでが良すぎて、比べると、ほぼ10分の1でした。でも、まったく関係なかった。お金をもらうために、仕事がしたいんじゃない。自分がやりたいことがやりたかった。『喫茶NISSIN』は代わりがいない、やりがいのある仕事だなと思ったんです」
梨歌ちゃんがやりたいこと。それは、1杯400円のコーヒーを提供することで、お年寄りの方にとって、楽しみになる行き先をつくること。逆にいうと、行き先がなくなってしまう人を出したくないのです。
「デイサービスとはちょっと違う、楽しい気持ちで、おしゃれをしてお出かけする場所をつくりたいんです。お気に入りの服を着たり、アクセサリーをつけたり……。うちはおばあちゃんと大学生ぐらいのお孫さんで来てくれる方が多くて、大学生のお孫さんがアサイードリンクを勧めて、飲んでいる光景があったりします。『新しい店ではチャレンジできないけど、行き慣れた店なら食べてみようかな』――。そんなふうな場所になったら、うれしいですね」
それから、一時期は興味を失っていた、「ものを売りたい」という気持ちもむくむくと出てきたといいます。
「自分がいいと思うものを売りたい。まずは喫茶店に来てくれる『タネリスタジオ』で活動する、アーティストの植松ゆりかちゃんや伊藤久美ちゃんがつくる手づくりの指輪やピアスから始めて、販売の手助けをできたらいいな」
昨年の11月22日、いい夫婦の日には、旦那さんの浅井佑真君と結婚。もちろん仕事に理解ある旦那さんで、今後に向けての準備もぬかりなし!
「私はめちゃくちゃ保守的だし、考えが古くて、新しいことにもそんなに挑戦しない。あるものを大事にしたい。だから、まわりのみんなが、瀬戸で新たに事業を起こしたり、イベントしたり、頑張る姿を見たりして、元気がもらえる。ここがみんなにとって、羽を休める場所になったらいいな。すぐ近くに、仲間がいるから楽しいし、自分のお店にやってきてくれるってうれしいこと。私にとって、喫茶店以上の仕事はない、と思っています」
瀬戸を訪れたときには、ぜひNISSINに立ち寄ってみてくださいね。
写真:濱津和貴