"せともの"の街、愛知県瀬戸市。この街は火の街・土の街と呼ばれ、昔から真っ白な陶土や自然の釉薬が採れるため、やきものの産地として栄えてきました。「ものをつくって、生きる」そのことに疑いがない。それゆえ、陶芸に限らず、さまざまな"ツクリテ"が山ほど活動する、ちょっと特殊なまちです。瀬戸在住のライターの上浦未来が、Iターン、Uターン、関係人口、地元の方……さまざまなスタイルで関わり、地域で仕事をつくる若者たちをご紹介します。

Vol.4 瀬戸本業窯 水野雄介

  • 瀬戸本業窯の水野雄介さん

    瀬戸本業窯の水野雄介さん

今回は、いよいよ瀬戸という街を象徴する仕事、やきものの窯元についてです。

江戸時代後期に創業した「瀬戸本業窯」では、瀬戸の山で採れる原土と釉薬を使い、昔ながらの手法でやきものをつくり続けています。ものが大量にあふれる今の時代に、何を思い、やきものをつくるのか? 商売として続けていくためにしていることは何か? 8代目・半次郎を継ぐ水野雄介さんにお話をお伺いしました。

「瀬戸本業窯」とは?

  • 創業当時から変わらぬ、馬の目や麦藁手といった模様のうつわ

    創業当時から変わらぬ、馬の目や麦藁手といった模様のうつわ

愛知県瀬戸市は、中世から現在まで続く日本の代表的な6つの産地「日本六古窯」のひとつ。文化庁が認定する、日本遺産にも指定されています。

瀬戸は平安時代から窯業が始まり、最初は"土物"と呼ばれる陶器、江戸時代には"石物"と呼ばれる磁器の生産も始まりました。それゆえ、「本業」=陶器、新しく誕生した磁器は「新製」と呼ばれています。

「瀬戸本業窯」がつくるのは、名前からわかるように"本業"=陶器のうつわ。瀬戸で採れる原土から粘土をつくり、赤松などの木を灰にして釉薬をつくる。鎌倉時代に蓄積した製法をベースに、時代の流れによって、登り窯がガス窯に変わった以外は、ほぼそのままのやり方でつくっているといいます。

  • 瀬戸の自然を使った釉薬が並ぶ photo:kamiura miku

    瀬戸の自然を使った釉薬が並ぶ photo:kamiura miku

「うちは受け継いできたものを捨てないように、歯を食いしばって、変わらずやってきたことが、ひとつの理念になっています。瀬戸の歴史を今に伝える最後の砦だという意識はあるし、消したくない。それがこの仕事を続ける、一番のエネルギーの源になっているかな」

8代目を継ぐ水野雄介さんは、この道に入ることに迷いはなかったといいます。

「僕は小さい頃から、物をつくることが好きだったから、何の疑いもなく、この道に入ってきた。強要はされていなくて、やれともいわんかった。でも、両親が一生懸命やっとる姿を見とったから、自然に入ったんだと思う」

世の中に残り続ける物とは?

  • 歴代のうつわが並ぶ

    歴代のうつわが並ぶ

「瀬戸本業窯」には年間約1万人の観光客がやってきます。その理由のひとつに、「民藝」という要素があります。

それは、雄介さんの祖父にあたる6代目・半次郎さんの頃のこと。思想家の柳宗悦や陶芸家の濱田庄司、バーナード・リーチが、名もなき職人による手仕事の美しき日用品に光を当てた「民藝運動」を進め、ここを何度も訪れ、高く評価してくれたそうです。

バブルの頃には、多くの窯元が効率や利益を求め、大規模化。陶芸家の作品は何十万円、何百万円という桁違いの金額で売れ、瀬戸は湧いた。そんななかでも細々と手仕事を続けていく。「民藝」の思想、彼らの評価は、大きな支えになったそうです。

「自然があり、物があり、どうバランスをもって、生きていくのがいいのか。生産者、使う人、物。この三者がいいバランスであることが、世の中に残り続ける仕組みなのかな、と思う。お金になるか、人気かどうか。それだけで価値はつけられないと思います」

瀬戸本業窯の門を叩く若者たち

  • 工房内の様子。女性のお弟子さんが多い photo:kamiura miku

    工房内の様子。女性のお弟子さんが多い photo:kamiura miku

「瀬戸本業窯」には現在、4名のお弟子さんがいます。理念に共感し、本業窯の門を叩きました。

高学歴の人が多く、一度、社会にも出て、東京で企業に勤めたり、地方で最初のボーナスに100万円もらったりした人もいます。皆、お金を一番の拠り所にしているわけではないといいます。

「なぜ、うちで働きたいか? それは実態があることをしたい子が多いんだと思う。今の時代は、多くのことがパソコンを叩くだけとか、画面上だけで仕事が終わっていく。僕たちの仕事は、まず土があって、これだけの時間と労力をかけてできたものが、これになった、というリアルがある」

とはいえ、窯業業界の労働環境はとても厳しい。条件の良い窯元の正規雇用でも16~17万円。手取りが14~15万円程度だといいます。

「理由はものがつくれるようになるまで、最短でも3年から5年と時間がかかるから。それまでは、仕事として成立しないんです。うちはものづくりをする上で、お手本みたいなつくり方があって、いい理念がある。けれど、いきなり正規雇用を結ぶのは、うちでもなかなか難しい」

理念では生きていけない。正規雇用に向けての改革

瀬戸本業窯では、年間の生産量は、すべて手作業で2万個から2万5000個。これだけの数を8人でつくり、やっと商売として成り立つ。昔ながらの分業制で、ろくろ担当の職人は、ずっとろくろを回し続け、本業窯の代表的な柄である"馬の目"を描く職人は馬の目を書き続け、一生をかけて、その道を極めていく。仕事が"間に合う"(一人前になる)ようになるまでは、お金は生み出せない。

ごく最近まで、弟子は教えてもらっているという立場で、給料は出ないか、出ても5万円程度。その代わり、寝るところとまかないは提供する。それでも昔の人は、まるで野生動物のようなたくましさで乗り越えていったが、時代は変わった。

そんな現状を踏まえ、雄介さんは今、正規雇用に向けて、大きな改革を試みようとしている。

「僕の奥さんの真里も、やきもの屋さんの娘。向こうは大量生産の技術を持った会社で、パートのおばちゃんでもすぐに仕事ができる。けれど、高齢化が進んでいる。うちは若い子は来てくれるけれど、正規に雇用はできない。そこで、半々で働いてもらおうという、親戚だからできる雇用形態をつくりました」

新しく入ったお弟子さんには、やきものの仕事に慣れるため、「本業窯」で3日、「瀬戸陶芸社」で3日間を基本として働いてもらい、忙しさによって、その時々で融通をきかせてもらう。

雄介さんは、「瀬戸陶芸社」の仕事にも関わっていて、お弟子さんとともに企画を立て、日本の風習を残すべく、干支をモチーフにした玩具ブランド「玩具工房」(瀬戸陶芸社内)を立ち上げた。

大量生産の技術を生かして、たくさんもうけるのではなく、どんどん数が減っている人形の原型をつくる原型師や、それをもとに型をつくる型屋さん、関わっている職人さんに安定的に仕事をお願いできるように、という思いも込められている。

流行に左右されず、後世へ残るものづくり

  • 瀬戸本業窯の工房

    瀬戸本業窯の工房

さらに、もうひとつ雄介さんが考えていることは、お弟子さんに働いてもらいつつ、民藝の精神を取り入れた作家活動を自由にしてもらう、ということ。

「うちで働いた子には共同工房を無償で貸して、副業をOKにしようとしてる。作家スタイルで民藝の考えを組み入れた子たちを応援する。もちろん、本業はゆるがしちゃいかんよ、というのは前提でね」

9月に開催された、年に1度の瀬戸でもっとも大きな「せともの祭」では、お弟子さん4人が「Dessy's」として出店し、大きな注目を集めた。民藝と聞くと、柳宗悦、濱田庄司といった方と接点をもった窯元などだけと思われがちだが、それだけが「民藝」ではない、と雄介さんは考えているそうです。

「柳さんが、晩年に何を言ったのか。それは『人はいかに生きていくか』。それこそが民藝が追い求めていく、ひとつの課題でもあり、答えだった。瀬戸の場合は、人と人の間にあるものが、やきものだったんだけど、ほかの産地にいけば、ガラスかもしれないし、竹細工、漆かもしれない。うつわは、人と人が介するためのものじゃないかな」

最後に、現在の流行に左右されず、後世へ残るものづくりで大切だと思うことをお伺いしました。

「先達が今につなぎ遺してくれた技術や理念、思想を後世に伝えていくためには、日々反復訓練すること、もがきながら時間を積み重ねること、その蓄積があって、これからを担う瀬戸の作り手が育っていく。誰のため、何のために仕事をしていくのか、意義を見つけることが、現在の流行に左右されない、今後を切り開くひとつのヒントになるはずです」

写真=濱津和貴