"せともの"の街、愛知県瀬戸市。この街は火の街・土の街と呼ばれ、昔から真っ白な陶土や自然の釉薬が採れるため、やきものの産地として栄えてきました。「ものをつくって、生きる」そのことに疑いがない。それゆえ、陶芸に限らず、さまざまな"ツクリテ"が山ほど活動する、ちょっと特殊なまちです。瀬戸在住のライターの上浦未来が、Iターン、Uターン、関係人口、地元の方……さまざまなスタイルで関わり、地域で仕事をつくる若者たちをご紹介します。

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vol.19 陶芸家きょうだい・水野このみ&水野智路

  • 陶芸家きょうだい・水野このみさんと水野智路さん

    陶芸家きょうだい・水野このみさんと水野智路さん

今回ご紹介するのは、陶芸家で姉の水野このみさんと、弟の水野智路さん。おふたりは、それぞれ幻の七宝と呼ばれる“陶磁胎七宝”、約1300年続く “練り込み”という技法をとことん極め、SNSや展示会場で丁寧にていねいに伝えることで、現在、つくった分だけ売れていく、という状況を生み出している。陶芸家として、ふたりが歩んできた、簡単ではないそれぞれの道をお届けします。

このみさんがつくった“陶磁胎七宝”のぐい呑。(Instagram・konomizunoより)

姉のこのみさんがつくるのは、江戸時代末期から明治時代へと移り変わる時代に、わずか数年間に作られ、正確なつくり方は残っていないという“陶磁胎七宝”。

  • 銀線で精密につくられた仕切り。

そのため、5年もの試行錯誤の末、完成に至った。その工程はとにかく緻密で繊細。銀線をピンセットでひとつずつ折り曲げ、絵柄を形づくる。その形作った中に釉薬を針で入れて色をつけ、窯で焼成。さらにこの工程を何度も重ね、ようやく完成する。その作品はどれも手のひらサイズで愛らしく、まさにこのみさんという人柄そのもの。

  • 智路さん定番人気のパンダ柄。器の表にも裏にも絵柄を楽しめる。

一方、弟の水野智路さんは「練り込み」という技法で作品をつくる。練り込みは、約1300年前に中国の唐からやってきたといわれ、色の異なる粘土を重ね合わせたり、練り合わせて成形していく。

智路さんがつくる工程をライブ配信された様子。(Instagram・tomoro.mより)

まるで太巻きのように、切っても切っても、同じ絵柄が出てくる。それを何本も束にして薄くスライス。スライスしたものをさらに茶碗やカップなどに形を変えていく。その手順を見ていると、あまりにも途方もない、繰り返しの作業の連続に圧倒される。

陶芸家として、独立するまでのあゆみ

おふたりが粘土に触りはじめたのは、いつという意識もない頃から。祖父の水野双鶴さんも、父の水野教雄さんも練り込みを極めてきた陶芸家。

自宅の1階が工房で、お父さんがいつも陶芸をされていたため、3歳頃から粘土遊びをしていたという。

お父さんの姿を見て、まっすぐに陶芸家の道へと進んでいくかというと、そこは大きく異なる。先に陶芸家としての道を歩みだしたのは智路さん。

智路さん:「サラリーマン家庭で育った人が、サラリーマンになるように、陶芸家になりました。今でこそ、陶芸が仕事というのは変な家だなと思うんですが、当時は変だと思わなかったんです」

陶芸家になろうと思ったいちばん大きな理由は、プロの陶芸家として練り込みをやる人がほとんどいないから。途切れさせてしまっては、もったいないという想いがずっとあり、陶芸家の道を歩むことを決める。

名古屋造形芸術大学(現名古屋造形大学)を卒業し、愛知県立瀬戸工科高等学校(旧瀬戸窯業高校)の専攻科へと進み、着実に陶芸について学んでいく。ところが、半年ほどで辞めてしまう。

陶芸の道へ進むなら、練り込みと決めていた

智路さん:「学校では陶器全般、釉薬のこととか、全部教えてもらえるんですよね。でも、僕は陶芸をやるなら、練り込みと決めていました。これしかつくれない。

練り込み以外の作品をつくるなら、ほかの仕事してますし、専攻科で学ぶ期間は2年だったんですけど、時間がもったいないと思って。売れるか売れないかわからないけど、「作っちゃおう!」と作品を作りはじめました」

初めての大きなイベント出店は、2010年に名古屋ドームで開催された「やきものワールド」。その時は「練り込み」というものが、まったく知られておらず、「練り込み」という技法が何かを伝えることに精一杯だった。

このみさん:「わたしも店番をしていたんですが、みなさんに「これはどういう風に作られているんですか?」と聞かれて、その度にこれは筆で絵を描く「絵付け」じゃなくて、「練り込み」という技法なんですよ、ということを一生懸命説明して。

今のお客さんはインスタとかを見て、わかった上で買ってくれていますけど、当時は、店頭で初めて見る人が多かったんですよね」

個展の前は人が来なくて終わってしまった夢をよくみる

  • 瀬戸で開催されたイベントにて。

智路さん:「姉のいう通り、展示の時はずっと説明しているので、すぐに声がかれてしまって。今でこそ、インスタを知ってる方が見に来てくださったり、コロナウイルスのこともあって、立つ時間は短くしていますけどね」

これだけ人に伝えることの重要性を感じているのは、「伝わらない」ことでもどかしさを感じている期間が長かったから。

智路さんが、陶芸家の道を歩みはじめたのは2008年。2016年頃に、海外で「練り込み」の動画が拡散され、注目を集め、日本でも注目されるようになっていくのだが、それまではなかなか芽が出なかった。

智路さん:「5年くらい前まではアルバイトをしていましたし、関東の百貨店で、1個しか売れない時もありました。むしろそういう時期しかない。いつ売れなくなるかわからないので、個展の前はずっと人が来なくて終わっちゃった、という夢をよくみます。だから、今でも展示会の時は、毎日、絶対に立つようにしています」

ものづくりに関わりたい。けれど不安で大手企業へ就職

陶芸家として、早々に動きはじめた智路さんとは対照的に、このみさんは、ものづくりに携わりたいという強い想いはあるものの、とにかく不安が強く、慎重派。

このみさん:「大学を出た後、陶芸をやろうと思った時期があるんです。『愛知県立窯業高等技術訓練校』(現・名古屋高等技術専門校窯業校)に願書まで出したんですけど、やっぱり普通に就職しようって、あきらめました」

毎日、作って、作って、いつ売れなくなるのか。毎月いくら、ともらえる仕事ではなく、陶芸で食べていくことが大変なことはわかっていた。

「私は陶芸が好きで、陶芸教室からはじめた人の気持ちがわからない。父の姿を見ていたので、最初から仕事なんですよね。人に買ってもらうというものだから」

ものづくりに携わりたい。そんな想いを抱えながら、就職した先は美容と健康に関する大手企業だった。

このみさん:「学生時代にアルバイトで接客をしていたので、働くといえば、接客業でした。化粧品売り場って、キラキラしているし、サプリメントも好き。お客さんの悩みを聞いて、『これがいいんじゃないですか?』と言いたくて(笑)。

でも、3年ぐらいですね。このまま頑張って働いても、店長になるだけ。やっぱり、ものづくりをしたい、という想いがあったので、辞めました」

退職後は、職業訓練校に通い、イラストレーターやフォトショップ習い、瀬戸の広告代理店で働きはじめる。求人広告用などに、イラストを描いたりしていた。

そこで3年ほど勤めたものの、アルバイトだったため、ものづくりと安定を求め、新たな求人を探す。そこで見つけた先が編み物、パッチワーク、手作り専門のカルチャースクールの事務だった。

安定しながら、ものづくりに携わる仕事をしたい。このみさんは、とにかくここに一貫した想いがある。そんな超のつく安定志向のこのみさんが、ついに動き出す。

このみさん:「事務の仕事をしていた頃、講師の先生に用事があって、ドアをコンコンって叩いたら、生徒さんに「先生、事務員さんが来ましたよ」といわれて。

改めて、ああ、私事務員だなと思ったんです。私が思っていた将来と違うな。それが、2011年の東日本大震災があった年で「やりたいことをやろう」と思ったんです」

  • 百貨店の個展に連れていった、ぐい呑みたち。

そこで大学卒業後に願書を出し、辞退していた「名古屋高等技術専門校窯業校」に改めて入学することに決めた。34歳のときだった。

このみさん:「私は陶芸をはじめたのが遅いし、自分だけができる何かにしよう、というのは決めていました。陶芸を仕事にすると決めたものの、そこからどうしようかな、と考えている時間が長かったです」

自分が進むべき道はどこなのか。その頃はいつも以上に、美術館めぐりなどをするなかで、「愛知県陶磁美術館」で「陶磁胎七宝」の存在を知る。

このみさん:「こんなの見たことない。陶器でこんなにきれいなものがあるんだと思って、やろうと決めました。これだったら、陶器を知らない人でも、陶器に興味を持ってもらえそう。それに細かいもの、小さいものが好きだったんです」

とはいえ、「陶磁胎七宝」は正確な作り方さえ残っていないため、その道のりは険しかった。5年間、釉薬の試験が続き、失敗ばっかりだったという。

このみさん:「弟も父もそうだけど、コツコツコツコツやっても売れない、ということはわかっているから、とにかく頑張って続ける。パーっと作って、パーって売れるとは思っていない。簡単にできるものだったら、誰でもつくれる。

そうではなくて、自分にしかできないものをやらないと。瀬戸にいると、いい作家さんがいるから、余計思うのかもしれない。

イラストを描くお仕事もしていたから、絵付けをやってみたら、ともいわれました。でも、絵付けなんて、伝統工芸士がいるし、恐れ多い。古典的な釉薬をつかった黄瀬戸の作品とかは、やる気になれない。誰もやっていないことをやる」

日々、試行錯誤を重ねるこのみさん。そんななか、いよいよ陶芸家としてデビューする。智路さんのひと言がきっかけだった。

このみさん:「お姉ちゃん、もうだいぶ作ってるから、出店してみたら? と言われたんです。私は不安が強いタイプだから、とりあえずやってみる、ということがない。インスタも弟に言われて、はじめました。

ちょうど弟が、ルミネ有楽町と愛知県瀬戸市のタイアップ企画で、瀬戸市のツクリテメンバーのみなさんで出店し、反響がすごかった後でした。ちょうど2回目の募集もあって、締め切りギリギリに申し込んで。背中を押してもらって、今があります」

窯元で社員として働きながらの作家活動

これをきっかけに、本格的に陶芸家としての活動をはじめたこのみさん。実はお隣のまち、多治見の窯元で、今も正社員として働きながら作品をつくり続けている。

このみさん:「勤務日は週5日の時もあれば、週6日の時もあります。8時に出勤して、17時ぐらいには戻って来られるので、自宅で3時間、4時間作品をつくっています。

私は窯元の絵付けの仕事も好きだし、気持ちの安定のために、おばさまたちとしゃべる場所も必要。集中力を保つ意味でも、3時間ぐらいでガッとやるのが、私には合っているんだと思います」

智路さんは、9時半から10時頃にはじめて、終わるのは17時頃と決めている。一気に売れはじめた頃、需要に応えないとと、遅くまでつくっていたものの、腰を痛めてしまい、無理することをやめた。

その代わり、「練り込み」を知ってもらうために、陶芸以外にも真剣に取り組んでいる。スケボーやダーツ、ゴルフ、ほかにもヨーヨー、革製品づくり、ルービックキューブなどに時間を使う。SNSでは楽しそうな様子がよく登場する。

智路さん:「コンビニみたいな感じで、練り込みを知ってもらう間口を広げたいんです。この人、どんなひとだろう? から、練り込みの作品をつくっているんだ、へーって帰っていく人もいれば、練りこみに興味を持ってくれる人もいると思うんです」

ものづくりに対して、真摯に向き合い続けていく

最後に、これからつくっていきたい作品についてお伺いしました。

智路さん:「今は、転換期ですね。パンダからの脱却じゃないですけれど。つくりたい柄が、まだまだいっぱいある。見てもらえなくなってきた時の裏技は、隠していたりします。売れなくなるのを怖がりつつ、楽しくつくる。年齢とともに、最終的には伝統的なものも見ていただけるように、なりたいですね」

このみさん:「作品づくりには、ずーっと終わりがない。満足がある仕事ではないので、これでよしとなったら、終わりな気がしていて、うまくできたから、今度はこうしようかなとか、そういう繰り返しで、一歩、一歩進んでいきます」

おふたりのお話を聞いていると、はしばしから、感じるものづくりに対する真摯な態度が伝わってくる。また、瀬戸はやきもののまちで、それぞれに専門家がいるから、突き詰めていかなければという想いも。

つくる過程のストーリーごと楽しめる、おふたりの作品。ぜひ注目して見ていただきたい。