"せともの"の街、愛知県瀬戸市。この街は火の街・土の街と呼ばれ、昔から真っ白な陶土や自然の釉薬が採れるため、やきものの産地として栄えてきました。「ものをつくって、生きる」そのことに疑いがない。それゆえ、陶芸に限らず、さまざまな"ツクリテ"が山ほど活動する、ちょっと特殊なまちです。瀬戸在住のライターの上浦未来が、Iターン、Uターン、関係人口、地元の方……さまざまなスタイルで関わり、地域で仕事をつくる若者たちをご紹介します。

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Vol.15 加藤工務店・加藤桂太

  • 父親であり、「加藤工務店」代表取締役の加藤隆広さんと、現在、専務取締役(4代目)の加藤桂太さん

    父親であり、「加藤工務店」代表取締役の加藤隆広さんと、現在、専務取締役(4代目)の加藤桂太さん

地元密着型の老舗建設会社「加藤工務店」。4代目を継ぐ加藤桂太さんは、大学進学とともに東京へ。2019年に瀬戸へUターンする前は、世界で最も影響力のあるハイテク分野での投資ファンド「ソフトバンク・ビジョン・ファンド」社員だったという、異色の後継ぎだ。

世界の最先端ハイテク企業への投資をしていた桂太さんが、なぜ地域に寄り添った、それもまったく畑違いの家業を継ぐと決めたのか。これまでの道のりとともに「最初、自分にできることは、ゼロだった」と語る、会社経営について、お話をお伺いしました。

「加藤工務店」とは?

  • 加藤工務店(愛知県瀬戸市中水野町2丁目679)

    加藤工務店(愛知県瀬戸市中水野町2丁目679)

「加藤工務店」は、昭和3(1928)年に、瀬戸市で創業された建設会社。現在、瀬戸市の中心を流れる瀬戸川にかかる“瀬戸橋”の工事をはじめ、これまでに市内に走る無数の道路や、アーケード商店街の歩道の舗装工事など、地元の人が生活する上でよく利用する現場の数々を手がけている。

「もともとは、初代・加藤春一が馬にリヤカーをひかせて重たい荷物を運び、工事をはじめたところからと聞いています」

とおっとりとした口調で話すのは、加藤桂太さん。その経歴とは裏腹に、とても親しみやすい印象を受ける。「加藤工務店」は、創業以来、90年以上ずっと瀬戸に根ざし、現在は34名の社員が働く。ここ10年間近くは、売上が10億円規模と、いわゆる地元の優良企業だ。

経営に関わる仕事でグローバルに戦える人になりたい

  • 1985年生まれ。慶應義塾大学・大学院卒業。大手コンサルティング会社「Accenture(アクセンチュア)」、「産業革新機構」、「ソフトバンク・ビジョン・ファンド」東京オフィス立ち上げメンバーを経て、約15年ぶりに家族とともにUターン。一児の父

    1985年生まれ。慶應義塾大学・大学院卒業。大手コンサルティング会社「Accenture(アクセンチュア)」、「産業革新機構」、「ソフトバンク・ビジョン・ファンド」東京オフィス立ち上げメンバーを経て、約15年ぶりに家族とともにUターン。一児の父

けれど、学生時代の桂太さんは、会社を「継ぐ」という考えは、とくになかったという。

「少し青臭いことをいうと、学生時代は漠然と経営に関わる仕事でグローバルに戦える人になりたいな、と思っていたんです。当時は、サッカー選手の本田圭佑選手や長友佑都選手が活躍している姿を見て、競技は違えど、と思っていました」

その目標に向かって、大学院卒業後は世界120カ国以上もの企業を応援する、大手コンサルティング会社の経営コンサルティング部門に就職した。そこでは、プロジェクトベースでチームを組み、必要な調査・分析を行い、クライアント企業が抱える経営課題の解決に取り組む日々だった。

「自分にとっていい経験になるプロジェクトに呼ばれようと思うと、ある程度結果を残していかなければいけない。そういう中で、プロフェッショナルとは何か? をある種、宗教的に叩きこまれるので、こっちも必死になっちゃうんですよね。平日も、週末も深夜まで、すごく頑張っていましたね」

忙しいものの、人に恵まれ、とにかく必死に実力をつけることに集中した。4年ほど勤めた後、桂太さんはさらなるキャリアアップを求め、日本産業の構造的な課題を解決するための政府系ファンドへと転職する。

「ファンドに転職したいなということは、入社1年目から考えていたんです。ファンドはコンサルタントの延長にある職種で、企業に出資をしたり、株主になって、経営に参画していく。コンサルタントより、会計・ファイナンスや法務の知識も必要なので、より経営に近く、幅広い知識が学べるなと思ったんです」

仕事内容としては、国内大手企業の事業部門のM&Aや事業の再編・統合が中心。ここでも人に恵まれ、自分の好きなこと、得意なことで給料をもらえることに幸せを感じていた。そんな中3年ほど働き、転機が訪れる。

「ソフトバンク・ビジョン・ファンド」東京オフィス立ち上げメンバーへ

  • 「ソフトバンク・ビジョン・ファンド」東京チームで歓迎会時に撮影

    「ソフトバンク・ビジョン・ファンド」東京チームで歓迎会時に撮影

「2016年、孫さんが『ソフトバンク・ビジョン・ファンド』が設立を発表し、上司が東京オフィスの立ち上げメンバーとして、移ることになったんです。その時に、声をかけてもらいました。

投資対象が主に外で、アジア、アメリカ、ヨーロッパのため、よりスケールは大きい。自分としては、力試しにもなるし、志向にも近い。何より、自分の知らない世界を見たいと思って、転職することを決めました」

テクノロジーを駆使したスタートアップ企業に対し、“10兆円”という前代未聞の規模を誇る投資ファンドの誕生とあって、世界が注目した。

「実務としては、現地のイベントに参加したり、金融機関からスタートアップ側のサポートをしている人に連絡をもらい、会いに行ったりしました。幸いなことに、東南アジアや中国では、日本以上にものすごい知名度がある。自分がソフトバンクの人間だというと、ぜひぜひミーティングしましょう、という感じだったので、ありがたかったですね」

投資先は、いい教育を受けた富裕層が多く、成り上がる意欲がすごかった。ビジネスクラスで出張して、高級ホテルに宿泊。おもてなしを含めて、屋上のテラス席でディナーをする、そういう世界だった。

気づけば、世界の最先端ビジネスの場で戦うという、かつて描いていた世界が現実になっていた。

次のキャリアに、家業を継ぐという選択

「社内で評価してもらい、昇進した時に、目標を達成したな、と思えたんです。それがきっかけで、次は外部のコンサルとか、投資ファンドの株主のような立場ではなくて、実際に何らかの事業を行っている組織の一員として、企業経営に直接関わる仕事をしようと思いはじめました」

選択肢としては、大企業の経営企画室や社長室へ行く、あるいは、スタートアップ企業のCFO(最高財務責任者)や経営幹部をめざす道もあった。けれど、そのタイミングで「そろそろ戻ってこんか?」と両親に声をかけられ、すぐに家業を継ぐ決断をした。

「僕が学生の時は、業界として良くない時代もあったので、両親も後を継いでほしいとは考えていなかったと思うんです。でも、あれから15年が経ち、会社の状況も良くなって会社を清算するんじゃなくて、続けていきたいという気持ちが芽生えているんだなと感じました。

両親の期待がある以上は、裏切れない。社長の息子ということで、小さい時から、役得というか、得してきた部分もある。そんな気持ちが強かったかもしれないです。運命ではないけど、宿命みたいな。そういうものだと感じています」

また、桂太さんのキャリアの考え方として、 “誰のために働くか”という点が一番重要だという。

「これまではクライアントや投資先企業のために働いてきました。けれど、身近な存在である加藤工務店や地元の発展のために、自分のエネルギーを注ぐというキャリアも、おもしそうだなと思いました」

「正直、自分にできる仕事がひとつもなかった」

  • 瀬戸に戻ってきた桂太さん。自分にできることを見つけ道を拓いていく

    瀬戸に戻ってきた桂太さん。自分にできることを見つけ道を拓いていく

2019年9月に会社を退社し、桂太さんは瀬戸へと戻ってきた。さっそく働きはじめるものの、自分のスキルを活かせるような仕事はひとつもなかった。しかも、会社の状況が悪いわけではなく、どちらかというと、いい状態。むしろ、素晴らしい会社だと思った。

「これまでの職場は、投資の検討や分析など、自分のできることが仕事につながっていた。でも、そんな仕事はここにはない。かといって、工事現場の実務ができるかといったら、当然できない。そこで、この分野ならできるかなということをかき集めて、少しずつ仕事を増やしていきました」

たとえば、採用。以前の職場であれば、ごまんと入りたい人がいる中で、選んでいく採用だった。けれど、今はまずは会社を知ってもらうことから。そのためには、やったこともない広報の仕事もする必要があった。昨年の夏には、ホームページもリニューアルした。ディレクションを担当し、会社のミッションを『このまちで「人」の道をつくる』と掲げ、働きたくなるようなホームページを心がけた。

「営業や総務の仕事で、4割から5割ぐらいの時間を使っていて、残りは経営というか、新しいものを社内に取り入れられないか、新しい取り組みができないか? 会社の将来のために使っている時間が半分ぐらいですね」

両親に、こんなことをやってみたら? と提案もするが、基本的に社長や常務の母親が賛同しないことをやらないという。

「もしも両親が否定的だったら、賛同してもらうためには、何が足りなかったのかなを考える。親子が一枚岩じゃない、後継者候補が1枚岩じゃないのに、会社が一枚岩になるわけがない。ほかの社員に見苦しい姿を見せたくないし、反発してまで意見はないです(笑)」

関わり方が、案件ごとにすぐ成果を出す「短距離走」から「マラソン」へ

  • 「加藤工務店」社員のみなさん(撮影時のみマスクを外しています)

    「加藤工務店」社員のみなさん(撮影時のみマスクを外しています)

桂太さんは、「働いている人たちや関わる人が、人生が楽しい方向へ、豊かな方向にいってくれたら、それが一番」と語る。

「この会社に入って、東京で好き勝手の日々を過ごせたのは、両親や加藤工務店の存在があったからだし、会社を支えてきてくれた社員のみなさんがいてくれたおかげだなと、すごく感じたんです。

だからこそ、よりよい会社をつくることで恩返しがしたい。といっても、自分の給料は現場の方々が確保してくださった利益から賄われていて、自分に先行投資をしてもらっている立場なので、未だに恩を受け続けているんですけどね」

これまで経験してきたキャリアは、案件やプロジェクトで動く「短距離走」だった。けれど、今は競技が「マラソン」になったという。

「仕事のリズムも、考えるスパンも、まったく違う。社長に就任したら、30年近く続ける可能性が高いです。今の取り組みも、1年、2年というスパンではなく、5年、10年かけて花開いたらいいかな、という覚悟でいます。会社が良くなることで、会社に入ってきてくれて、よかったなとみんなに思ってもらえたら嬉しいです」

  • 桂太さんが考える、ローカルで働くポテンシャルとは?

    桂太さんが考える、ローカルで働くポテンシャルとは?

最後に、世界を舞台に活躍していた桂太さんに、ローカルで働くポテンシャルについて、どう感じているのか語って頂いた。

「どこの地域でも、ポテンシャルは変わらなくて、結局は熱量を持った人がどれだけ集まるか。能力というよりは、熱量を持っている人がどれだけいるかで、組織なり地域が盛り上がっていく、と僕は思っています」

桂太さんは、前の職場の頃からAIやIoTに興味を持っていて、現在もプログラミングの勉強をしているという。

「土木に活きるAIみたいなものを、時間がかかってもいいから、つくってみたいですね!」

熱量を持った人がどれだけ集まるか。働く場所を選べる時代に、まさにこのことが鍵になりそうだ。