本命になれない彼女

地下鉄に乗っているとき、隣に座っている女の子のLINEの画面が丸見えになっていた。嫌でも視界に入る位置でハイスピードのやりとりが繰り広げられており、いけないとは思いつつ、つい画面にクギ付けになった。

どうやら、彼女にはセックスはしているものの彼氏にはなってくれない相手がいるらしく、彼女の側は彼が好きなようだ。そのことを女友達に相談している。「彼氏欲しいんだったら、わかってると思うけど、俺はおすすめできないよ(笑)」と言っていた、とまで書いていた。彼女の前にはキャリーバッグがあった。その日は連休の最終日で、私は彼女はどこか遠い場所からわざわざ、彼に会いに来たのかなと想像したりした。

好きな相手とセックスまでできているけど、彼女はたぶん、彼の本命にはしてもらえない。もう、そんなこと、LINEを盗み見ちゃっただけでわかる。_要するに、ナメられてるし、対等な相手として見られていないのだ。彼の側にしてみれば、好きじゃないから便利に扱えるし、たとえそれで彼女に嫌われても、何のダメージもない。敗色濃厚である。もう見ているこっちは「LINEなんかやめてさ、六本木で飲もうよ!」と肩を叩きたい気持ちをグッとこらえるのに精一杯である。

私にも、こういうことは山ほどあった。思いつく限りのことをして尽くして、相手に喜ばれることを考えて、相手の迷惑にならないように考えて、そしたら、都合の良い相手になるだけで終わってしまった。

「好きな相手」は見つかっているのに、お互いにグルーヴする恋愛には至らないパターンである。「これは、恋とは呼べないのでは?」ともよく思った。コミュニケーションが成立してるとは言い難いからだ。

恋はしているんだけど、恋にならない

こういう形での「恋はしているんだけど、恋にならない、発展しない」状態は、私だけじゃなくて多くの人が経験しているのかもな、と地下鉄に彼女を残して降りながら、思った。

恋愛が上手な人を見ていると、好意を出すことにためらいがない。気を引くためにふっと気の無い素振りをするのも上手だ。その根っこにあるものは、「相手に嫌がられはしない」という安心感だと思う。

自分の身を振り返ると、「好きだとバレたら、気持ち悪いと思われるんじゃないか」「迷惑なんじゃないか」「いやその前に純粋に恥ずかしくてしょうがない」みたいなためらいがあり、好意の伝え方が中途半端になることが多かった。十分に伝え切れていないため、常に伝え切れてない欲求不満があり、本来スッと引くべきところで引くこともできなかった。チャンスにがっついてしまうのだ。

こうなると、「すごく会いたがってる側」と「会ってやってる側」みたいな関係になってしまい、対等になれなくなる。もちろん、対等でないから、好かれることはない。 彼の気持ちを察することを、彼女は無意識のうちに拒否しているんだと思う。察したら、そのあとどうすることもできなくなるから。

だから、証拠をひとつひとつ集めるようにして「セックスしてくれた」こととか、「こんなことを言ってくれた」とか、「好きな相手にすることを、してくれた」という出来事を拾い集めて、LINEで誰かに報告して、「きっと、彼はあなたのことが好きなんだよ」と言ってもらいたいんだろう。

好かれるための努力は相手に優しくすることではない

私は長いこと、彼女のように、「好かれるための努力」というのは、相手に優しくすることだと思っていた。相手の負担にならないこと、とも思っていた。

あるとき、特に誰の優しさも必要としていない相手を「いいな」と思ったことがある。その人のことを友達に話すと「いい人そうじゃない?」と言う。自立していて、仕事に夢中で、自分の欲しいものは自分で手に入れて、満たされた生活をしている、いい男じゃないかと。

そのとき、私の口をついて出た言葉は、「でも、つけいるスキがないんだよねー」だった。優しくしたり、尽くしたりする余地がないから、どうしたらいいのかわからなかったのだ。友達はびっくりした顔をして、こう言った。「つけいるんじゃないんだよ! 楽しい経験を共有するんだよ!!!」。あのとき、と言っても、正直そんな昔の話ではない。あのときの、頭を手ごろな岩でぶん殴られて脳みそが砕け散るような感覚は、忘れられない。今も部屋の壁に脳漿がこびりついているような気さえする。

確かに、自分の身に置き換えて考えると、つらいときに優しくされれば好きになるわけでもないし、尽くされれば好きになるわけでもない。現に地下鉄の彼女だって、こんなに冷たくあしらわれているのに、彼を好きになっているわけだし。

でも、「楽しい経験を共有する」という発想は全然なかった。それは「対等な関係」の人たちがすることだからだ。「自分と一緒にいて、相手が楽しいと思ってくれる」ということも想像しにくい。

「自分を相手より一段下に置かない」ために

私は、はなから自分を、相手よりも「一段下にいる」ものだと考える癖が抜けてなかったのだ。低いところにいるから、何か相手の得になることをしてあげないといけない、と思っていたフシもある。

好意を上手に表現できるかどうか、引くべきときにスッと引けるかどうか、そういうのは「自信の有無」の問題だと、私は長年思っていた。もちろん、それもある。けど、実はそうじゃない部分もあって、それは「相手とのコミュニケーションが成り立っているかどうか」という部分だった。

コミュニケーションが成り立っていれば、何か自分がアクションを起こしたときに、相手が喜んでいるか、困っているか理解できる。それ以前に、どういうことで喜び、どういうことを嫌がる相手なのかもわかる。

そして、人は一段下から見上げてくる相手と、対等なコミュニケーションなんて、取れない。一方通行の恋愛に幾度も血道をあげてきたが、それを知ったとき、「恋愛」とは、そもそもそういうことじゃなかったんだなぁ……と思った。

「自分を一段下に置かない」ために、どうすればいいのか。どうすれば対等に振る舞う自信が得られるのか、私にはわからない。けれど、自分を一段下に置かずにいられる相手と出会えば、対等な関係とはどういうものかということは、わかるんじゃないかと思う。一生懸命、何を話さなきゃいけないか考えなくても自然に会話ができて、楽しくて、相手も自分と一緒にいるのを楽しんでいるのが伝わってくるような、そういう相手に会えば、わかるはずだ。

こちらに自信がないことを見越して、「一段下に見てくる」相手もいる。そういう人と会っていたら、自信は損なわれていくばかりだし、一段下に立つ習性がしみついてしまう。そういう人との関係は、断ち切るべきだ。どんなに好きでも、断ち切ったほうがいい。自分を犠牲にして相手を愛しても、その相手からは何も返ってこない。私はそれを「見返りのない無償の愛」と、呼びたくない。見返りがないならないでもいいけど、自分を踏みつける人間にそんな大事なものを捧げるなんて、考えただけで腹が立って、涙が出そうになる。

それは自分が通ってきた道だからでもある。自分を踏みつける相手を愛することは、間接的に自分で自分を踏みつけているのと同じことなのだ。それを知るまでに、ずいぶん時間がかかった。

恋愛ではない場所で自信や誇りを探すのもいい

地べたを這いずり回っているときに、誇りを持つのは難しい。自分を見下している相手といるときに、自信を持つのは難しい。

恋愛で自信を、誇りを持ちたいと思って、それが叶えられたら幸せだと思う。その気持ちが間違っているとも思わない。けれど、それがうまくいかないときは、恋愛ではない場所で、自分が自信を持てる場所、誇りを持てる場所を探すのもいいと思う。

誰かに当たり前に尊重され、優しくされることを知れば、もう少し上手に、人と対等なコミュニケーションを取ることができるようになるのではないだろうか。地下鉄の彼女に、友達がいて良かった。友達に大事にされている自分を、大事にしてほしいと思った。

<著者プロフィール>
雨宮まみ
ライター。いわゆる男性向けエロ本の編集を経て、フリーのライターに。著書に「ちょっと普通じゃない曲がりくねった女道」を書いた自伝エッセイ『女子をこじらせて』、対談集『だって、女子だもん!!』(ともにポット出版)、マイナビニュースでの連載を書籍化した『ずっと独身でいるつもり?』(KKベストセラーズ)、『女の子よ銃を取れ』(平凡社)がある。恋愛や女であることと素直に向き合えない「女子の自意識」をテーマに『音楽と人』『SPRiNG』『宝島』などで連載中。最新刊は、『東京を生きる』(大和書房)。

イラスト: 冬川智子