この連載では、私たちが毎日のように使っているお金が、いかに不思議で捉えどころのない存在かについて書いてきました。今回も、お金が忍者のように「分身の術」を使って増えたり減ったりしている、という話です。
「いやいや、お金が勝手に増えたり減ったりするわけないでしょう。財布の中の1万円札がいつの間にか2枚になってたなんてことは、残念ながら経験したことがないよ」と思うかもしれませんね。
それはその通りなのですが、第6回でお話しした通り、お札やコインのような「体がある」お金は、実は全体の中のほんの一部だけです。お金の大半は、日本銀行(日銀)などがコンピューターに記録している単なる「数字」でしかありません。そして、この連載で何度か強調してきたように、それらは私たちが「存在する」と信じているから存在する、幻のような存在なのです。
お金を「増やす」方法
とはいえ、いくら数字だからといって、日銀や民間銀行が勝手気ままに額を水増しすることはできません。日銀は円をどれだけ発行しているか、記録して厳しく管理しているからです。ところが、そのお金を「増やす」方法があるのです。
この魔法を使っているのは銀行です。ここでは話を単純にするため「銀行」と書きますが、信用金庫や信用組合など、私たちから預金を集めて企業などに貸し出している金融機関も含みます。
さて、銀行はどうやってお金を増やすのでしょう。
例えばAさんが100万円を銀行に預けたとしましょう。銀行からすると、Aさんから100万円を借りたことになります。銀行はこのお金を誰かに又貸しして、利息をもらうことで利益を得るのが仕事です。
銀行はAさんがATMでお金を引き出そうとしたときには、すぐに応じなければなりません。ただ、預けたお金をすぐに全額引き出す人はほとんどいません。そこで、銀行はAさんが預金をおろすときに備えて、例えば1割に当たる10万円だけ残して、90万円は企業に貸してしまいます。具体的には、お金を貸してほしいと言ってきた企業の口座に90万円を振り込むのです。このとき、お金に何が起きているのでしょう。
Aさんは銀行に100万円を預けているわけで、「私は100万円持っている」と思っています。実際、銀行の預金通帳には100万円が記載されていて、いつでも使うことができます。一方、企業の口座にも、90万円のお金が振り込まれています。借りたお金ではありますが、返済期限までは自由に使えるお金です。
そう。なんと、Aさんと企業を合わせると、「使えるお金」が、いつの間にか100万円から190万円に増えているのです!
実は、話はこれで終わりではありません。90万円を借りた企業も、その全額をすぐに使うわけではないからです。企業の口座がある銀行は90万円のうち1割にあたる9万円だけを企業の引き出しに備えて残し、残りの81万円を別の企業に貸すでしょう。新たにお金を借りた企業の口座には81万円が振り込まれ、これで「自由に使えるお金」は全部で100+90+81=271(万円)になりました。
こうして、貸し出しを繰り返すことで100万円はどんどん膨らんでいきます。最初は100万円でも、世の中で「使えるお金」は何倍、何十倍になっていくのです。これがお金の「分身の術」です。
みんなが一斉にお金をおろしたらどうなる?
ただ、ここまで読んで急に不安になってきた人もいるのではないでしょうか。「ちょっと待って。みんなが一度にATMでお金を引き出したらどうなるの?」というわけです。もっともな疑問です。
たぶん、銀行の人に同じ質問をしたら、「大丈夫。そういうことは起きません」と答えるでしょう。「でも、起きたらどうなります?」と重ねて聞けば、困った顔をするに違いありません。その場合、「銀行はつぶれてしまう」というのが正しい答えだからです。
もちろん、そんなことはめったに起きません。銀行は何万人という人や企業と取引しているので、みんなが一斉にお金をおろすことはないからです。銀行は過去の経験から、どれだけ手元に残しておけば大丈夫かを計算しているし、国や日銀も規制をしています。
ただ、まったくそういうケースがないわけではありません。それが「取り付け騒ぎ」と呼ばれる現象です。人々の間で「銀行に行けばいつでもお金を引き出せる」という信用がなくなって、一斉に預金をおろし始めるのです。もし、文字通りすべての預金者がお金を引き揚げようとすれば、銀行は全員に渡すお金は持っていないのでつぶれてしまいます。
これでお分かりのように、実は「世の中にあるお金」というのは、「発行された額」とイコールではありません。銀行の貸し出しを通じて、何倍にも膨らんでいるのです。銀行に対する「信用」が失われた瞬間、魔法が解けて一部が消えてしまうことさえあるのです。
例えば、アメリカで大手の金融機関がつぶれた「リーマンショック」の直後は、世界中でお金が足りなくなりました。銀行は、お金をたくさん貸し出すほどつぶれる危険が増してしまうので、融資に慎重になったのです。すると、先ほどの逆で、世の中で「使えるお金」がどんどん減っていきます。それが景気を冷やし、個人や企業の側もお金を借りなくなるという悪循環に陥ってしまったのです。
前回、現在の日本では、日銀が民間銀行にお金を流しても、なかなか物価が上がらない、という話をしました。別の言い方をすると、「世の中のお金が思ったように増えないので、お金の価値が下がらない」、つまり物価が下がるデフレから抜け出せないということです。
これも、今回お話ししたお金の分身の術と関係しています。最近、日本の企業はなかなかお金を借りません。もうかりそうなビジネスがあれば、銀行からお金を借りてでも工場を建てたり従業員を増やしたりするかもしれませんが、そういう明るい見通しが持てないからです。
むしろ、景気が悪化した時に備えて「なるべく借金は減らしておこう」と考える企業や個人が増えています。そうなると、先ほどの「銀行の貸し出しを通じてお金が増える仕組み」がうまく働きません。日銀が民間銀行にお金を流し込んでも、以前のようにはお金が膨らまないので、物価を上げることができないのです。
著者プロフィール:松林薫(まつばやし・かおる)
1973年、広島市生まれ。ジャーナリスト。京都大学経済学部、同大学院経済学研究科修了。1999年、日本経済新聞社入社。経済解説部、東京・大阪の経済部で経済学、金融・証券、社会保障などを担当。2014年、退社し報道イノベーション研究所を設立。2016年3月、NTT出版から『新聞の正しい読み方~情報のプロはこう読んでいる!』を上梓。