前回は少し昔の余部鉄橋(山陰本線鎧~餘部間の余部橋りょう)の話でしたが、今回はその後、コンクリート橋への架替えが決まってからのことを記してみたいと思います。
あの思い出深い余部鉄橋が架け替えられてしまう。そんなニュースを聞いた筆者は、「これはいまのうちに記録に残しておかなければならない!」などと、本来ならどこか然るべき立場の人がきちんとやるはずの使命感を横取りして、バイクで出かけていきました。
あえて鉄道で行かなかった理由は、前回も少し触れましたが、列車に乗って日帰りで写真を撮りに行くと、その日のうちに帰れなくなりそうだったからです。余部鉄橋は鉄道で行くと、自宅からかなり遠いのです。もちろんバイクで行っても遠いのですが、そこはまあ、ある程度時間の融通がきくから、ということで……。
鉄橋の真下から見上げた「余部橋りょう」の文字が…
国道178号線。香住から小さな峠を越えて大きく右にカーブすると、前方に開けた大きな谷をふさぐかのように、鉄の柵が出現ました。その昔、美術の教科書で見たクリストという芸術家の「ヴァレー・カーテン」のようにも見え、ちょっとシュールなスケール感です。この位置からロングショットで、鉄橋を列車が通過するところを撮ってみたいと思っていたのですが、このあたりの山陰本線は1時間に1本通るかどうかのダイヤなので、結局あきらめて橋の真下まで走ることにしました。
真下から見上げた赤い橋桁には、白く「余部橋りょう」の文字があります。待つことしばし、谷あいに列車の音が小さく響いて、赤くて短い気動車がやってきました。ここは電化されていないのもまた良いです。この景色に架線は似合わないでしょうし、この鉄橋を駆け抜けていく列車のディーゼルエンジンの音が、この景色に非常によく合っていると思います。
その日は結局、通過する列車を2本見て帰ってきました。2004年の秋の出来事でした。
その後、余部鉄橋が架け替えられるまでの間に、鉄道で1回、バイクで1回、クルマで2回、現地まで通いました。最後の年の夏には、鉄橋がライトアップされました。それを見たいがために、熊野の大花火を撮影に行った翌日、紀伊半島から日本海側まで、自宅を素通りしてロングドライブを敢行したこともあります。我ながらあんまり賢くありませんね(笑)。
でも、それを最後に足は遠のいてしまいました。鉄橋が取り壊される姿を見たくなかったのです。京都には「普請負け」という言葉があり、古くなった家を取り壊して建て替えたところ、以後家族に不幸が続く……、そういう状況を指す言葉だそうです。家に宿った魂が障るのだといいます。民家ですら祟るといわれるのに、ましてや巨大な余部鉄橋。祟らないことがあろうか、いやない(反語)。もちろんそんなことあるはずもないのでしょうけれど。
単に筆者自身が寂しい気持ちになりそうだったから、行かなかっただけです。
今年の秋、久しぶりにバイクで現地を訪れました。橋の下には道の駅ができていて、駐車場には橋桁の一部が設置されていました。あの日見上げた「余部橋りょう」の文字が、いま目の前にあります。真新しいコンクリート橋は、かつての鉄橋を避けるように建設されたこともあってか、微妙なカーブを描いて空を渡っていきます。
しばらく見上げていると、遠くから列車の音が響いてきました。そして、あのとき見たのと同じ、赤くて短い気動車が通過していきました。