コロナウイルスの影響により外出自粛、そして「密」を避けろというお達しにより、まずイベントなどが中止され、ライブハウスなど人が集まる店舗も早くから休業をせざるを得なくなってしまった。

そんな状況を受け、ライブをネットで配信するなど、商売の場をオンラインに移したところも多かった。

もちろんそれで全てが補てんできるわけではなく、廃業も相次いでいると聞いているが、何もせず固定費だけかかる状況よりはマシであり、早々にオンライン移行したことにより助かったというところもあるかもしれない。

我々作家も「電子がなかったら即死だった」という状態である。

このように、これからの商売というのは、オンとオフ両方で収入を得られるようにし、どちらかが倒壊しても持ちこたえられる二本柱制にしておくことがマストなのかもしれない。

逆に世界がマッドマックスや北斗の拳みたいになったら、ネットに精通していてもあまり意味がなく、改造キャデラックやジープを運転するのが上手いなど、現場に強い奴が生き残るだろう。

目指すはアイパッドを使いこなすケンシロウだ。

ライブや現場にしかない良さももちろんあるが、それだけではいざと言う時困るということが今回わかった、ということである。

こんなものまでオンライ…… いやまてなにその機材

そんなわけで、現場主義だった習い事なども「オンラインレッスン」を始めるなどしているのだが、「これぞ現場至上主義」と思われていた意外なジャンルもオンライン化に乗り出している。

「オンライン法要」 もうこの字面だけで優勝なのだが、「ガチ勢」としか言いようのない重厚なIT機材を袈裟姿の僧侶たちがヘッドフォン着用で操っている姿は本当に一見の価値があるので、ぜひ死ぬまでに見てほしい。見るだけで悪霊やコンピューターウイルスを退散できると思う。

  • PCキッズ興奮のガチ機材「オンライン法要」が見せた、非ライブの可能性

    ここまでくると悪魔召喚プログラムだってイケるんじゃないだろうか。ヒーホー

オンライン法要とか、どこのベンチャー寺がやってんだよ、と思ったが、行ったのは「築地本願寺」という老舗寺である。

確かに太い寺の方が、本格的なオンライン設備も導入しやすいだろう。

僧侶と言えば、昔から、機械などには疎いようで、原付の乗りこなしなどには定評があるし、大きい寺であれば、ギーク僧侶の一人や二人いるのだろう。

今回オンライン化をしたくても設備を整える余裕がなかったり、そもそもネット知識のある者がいないという所もあっただろう。

元が太くなければ、有事に柔軟に対応というのも難しいのである。

築地本願寺はそれらのガチ機材を使い、YouTubeで法話を配信したり、定点カメラで本堂や読経をライブ中継し「オンライン参拝」ができるようにしたそうだ。

また、一周忌などに人を集めず、僧侶が読経姿を家族に配信する「オンライン法要」も期間限定で行った、という。

実は、現場にはごく少数の家族だけ集め、他の参加者には葬儀の様子を配信するという「オンライン葬儀」をしているところもすでにあり、今回のコロナウイルス騒動で改めて注目を集めているという。

今は人を集めることが出来ないので必要に迫られてという感じだが、今後このオンライン法要や葬儀がメジャーになってくる可能性があるのかもしれない。

どっちが、ではなく、選べることこそ重要だ

一方で、そんな葬儀は弔ったと言えない、という意見もあるだろう。

確かに歌も経もライブが良いし、推しや故人の顔も画面ではなく、生で見るに越したことはないだろう。

しかし世の中には様々な事情で現場には行けない人がいる。そんな人たちがオンライン化することにより、画面越しでもライブ参加や故人とのお別れが出来ると言うメリットは大きい。

オンライン化したことによりライブが不必要になるということはないだろうが、オンライン化により可能性が広がった、というのは確かだろう。

ちなみに葬儀というのは、最近は全体的に簡略化傾向にあり、通夜をやらなかったり、火葬だけというのも増えてきているそうだ。

当然、葬儀をあまりにも簡単に済ますのも問題である、という意見はある。

精神論で仕事の合理化を妨げるのは老害のやることだが、葬儀というのはこれ以上なく精神の話なので、合理化しすぎることで後に問題が出てくることもあるらしい。

取引先の社長の母親の内縁の夫、すなわち他人の葬儀なら簡単なことに越したことはなく、経も三倍速のテクノバージョンでお願いします、と言いたくなるだろうが、時には思い出のある近しい家族の葬儀を自分で行わなければいけないこともある。

そういった葬儀を本人の意向だからと三倍速テクノで終わらせると、残された方が「お別れした気がしない」「これで良かったのか」と、後で後悔に苛まれることになるだろう。

合理化・簡略化も大事だが、時には時間や手間をかけてしっかりお別れ、もしくは二度と蘇らないように三日三晩教を唱え、念入りに二度焼き三度焼きした方が逆に後に引きずらなくて合理的という場合もあるのだ。

何でも簡単に済ませようとするのは良いが、そのせいで後々もっと面倒なことになる場合もあるので、その場の時短だけを考えないように気をつけたい。