もうみんなコロナの話題自体に疲れてきていると思うので、今回はマスクの話をしよう。
鼻毛の話なんかやめてワキ毛の話をしようと提案されたような気分になっているかもしれないが、思い返してほしい、コロナウィルスが蔓延する以前も、マスクをしている人間というのはそれほど珍しくなかったではないか。
私はどちらかというと急を要する事態でもでもなかなか外に出ようとせず、気づいたら避難勧告を無視した米津玄師みたいになっている方だが、最近どうしても用があり人に会いに行った。
私は緊急事態宣言の「緊急」に最後まで入れてもらえないであろう田舎に住んでいる(結局、まさかの全国拡大で日本中の僻地も緊急に入れてもらえたが)。それでもマスクの入手は難しい状態なのだが、幸い家を探したらいつのものかわからない未使用マスクを発見することが出来た。
片づけられない人間というのは、あらゆるものを「そこらへん」に放置したまま、その存在すら忘れるという習性がある。そうすることにより家自体を「でっかい宝島」にしているのだ。
そして、薬局が閉まっている時間に頭(ず)が痛いとか、ドストレートに金がない、と言う時に家(宝島)をダメ元で探すと、野良ロキソニンや野生の千円札を発見することが出来るのだ。
もちろん野に放ったのは自分なのだが、見つけた時「ラッキー」「助かった」と思うことができる。つまり「希望の種」を巻いているのである。片づけが出来ることは良いことなのだが、その反面「自ら希望を刈り取っている」ということにもなっているのだ。
外に出ると、あれだけマスクの入手が難しいと言っているのに、みんなマスクをしている。みんなカジュアルな格好でくるから、と言われたパーティにスク水で行ったら、みんなスーツだったような感覚である。
電車に乗っている9割以上がマスクをしているという状態だったが、日本はもともとマスクをしている人がそんなに珍しくないので、そこまで異様な光景とは感じなかった。しかし、欧米諸国などからするとこれは、「車内全員スク水」ぐらい異様な光景なのだという。
所変わればマスクの印象も変わる、しかも凄く変わる
日本は花粉症大国ということもあり、風邪でなくてもマスクを使う人が多い。また、すっぴん他、何かを隠すために健康上の理由以外でもマスクを常用している人もいる。
一方欧米では、風邪など病気以外でマスクをするということはあまりないそうだ。
マスクをしているというのはコミュニケーションを拒んでいると見なされ、さらに口元を隠すというのは「相手の口が臭い」とアピールしているように取られる恐れがあるからだという話まである。
つまり、何の理由もなくマスクなどしていたらそれだけで「手前のマウスのスメルがバッドでマスクがなけりゃあタスクができねえ」というラップバトルを挑んだことになりかねないのだ。
銃社会でそれは危険である。
また、アメリカではフィクションでもヒーローは目を隠し、悪者は口を隠す傾向にあるという。
確かにキャプテン・アメリカなど、目元が隠れている以前に気になる所がありすぎて気づかなかったが、確かに口は大きく開いているのに目元は隠れている。バットマンなどもそうだ。どうやらアメリカでは口を隠すと「胡散臭い」という印象を持たれてしまうらしい。
片や日本人は、それこそ平安時代から扇などで口元を隠したりと、口を見せないのが上品であり、大きな口でしゃべるのは下品とされてきた。よって相手がマスクをしていても、そこまで無礼や違和感を感じることがないのだという。
また「目は口ほどに物を言う」ということわざがある通り、日本人は相手の本心を言葉ではなく目で読み取ろうとする傾向があるという。確かに、日本は「本音と建前」社会なので、口では「ほな、お元気で」と言っていても本心は「死ねドス」かもしれないのだ。口ではなく目に「死ね」「ドス」と書かれていないか読もうとするため、口よりも目を隠される方に抵抗を感じるらしい。
ほかにも、目の色素の関係もあるのだろうが、欧米人がサングラスを日常的にかけているのも、向こうでは目を隠すことがそれほど不自然ではないからとも言われている。
逆に日本でグラサンを常用というのは、YOSHIKIかGACKT、YOUSUIレベルの選ばれし者感がないとなかなか難しい。
実はマスク、日本人向けグラサンの効用があるのかも
しかし、目ほどではなくても「感情隠し」のためにマスクをしている、という人もいる。
本当ならグラサンもかけたいところなのかもしれないが、それだと日常生活が職質により困難になるため、マスクだけにしているのかもしれない。
本心が言葉以外にあるため、それを「読まれる」ことを恐れる国民性が、日本の「マスク文化」を生み出したのかもしれない。
日本は欧米に比べディスコミュニケーションで、陰険で口が臭い、という恥ずべき文化というわけではなく、マスクが平安時代の「扇」とでも思えば、それが文化と言えなくもないし、ツバやバッドスメルが他人に届かないという配慮にもなっている。
また、マスクをかけることにより、対人恐怖が和らぎ、人と上手くコミュニケーションできるというなら、それは目が悪い人がメガネをかけているのと大して変わらないのではないだろうか。
それをマスク依存だからやめろというのは、目が悪い人に、メガネに頼らず努力でなんとかしろと言っているのと大して変わらない。
私も、今回の騒動で初めて風邪以外でマスクをかけて人と接したが、その方が相手と落ち着いて話せたような気がする。もしかしたら私のマウスバッドスメルがなくなって相手の方が落ち着いていたせいかもしれないが、コニュニケーション補助ツールとして確かにマスクはありだと思った。
もしかしたら、今回それに気づき、事態が収束したあともマスク常用者は増えるかもしれない。
それを異様と感じる人もいるかもしれないが、コホーコホー言うタイプのマスクでなければ、扇と思って許容してみてはどうだろうか。