先日、ヒャダインさんが寄稿した「体育」についてのコラムが話題になっていた。

内容は一言で言うと体育への「憎悪」であり、全国の体育大嫌いキッズと元キッズたちが何故体育を嫌い、恨むにまで至っているかを見事に言語化していると賞賛されていた。

注目すべきは、運動行為やスポーツ自体を嫌っていたわけではなく、それを強制的に行わせる体育という制度、そしてそれを執行する「体育教師」という存在を恨み、坊主憎けりゃ袈裟までファッキューの精神で、スポーツまで悪印象を抱くようになったという点である。

数ある教科のなかで、なぜ「体育」だけが?

どの教科にもそれが苦手な生徒はおり、それをやらされているのだから「俺様が苦手なことをさせるな」というのは、一見わがままなようにも聞こえる。

しかし、国語とかであれば低得点の答案が他の生徒に晒され「まず自分の名前が漢字でかけてない」ということがバレることはないし、私の時代ですらテスト順位が貼りだされるなどということはなく、そういうのはときメモの中だけで行われるフィクションという位置づけだった。

  • 今回は「体育嫌い」に「体育教師」も悩んでいるらしい、というお話。ところで昭和の体育教師はマジで今からでも逮捕した方がいいと思います

    今回は「体育嫌い」に「体育教師」も悩んでいるらしい、というお話。ところで昭和の体育教師はマジで今からでも逮捕した方がいいと思います

だが体育はそのような「公開処刑」が今でも毎時間行われているのだ。

さらに他の教科は苦手だろうが得意だろうが、所詮「個人戦」であり、理科などで班活動があったとしても「班対抗フラスコ割り選手権」が行われることは滅多にない。

だが体育だとチーム競技が行われることも少なくない、それが「ポリネシアン横跳び(団体)」など、誰もルールを知らず、勝利も敗北もないまま孤独なレースが続いていくタイプの競技なら良いのだが、大体の場合勝敗がある。

よって運動ができないキッズは、個人競技ではその出来なさを笑われ、団体競技では他の生徒に迷惑がられと、トラウマレベルに嫌な思いをしがちなのだ。

しかし、学校は自分の得手不得手を知る場でもあるし、どうせ社会に出たら出来不出来をジャッジされるのだ。全員で手をつないでゴールなど、勝敗や順位付けを徹底的に避ける教育が正しいとは限らない。

しかし、何のために得手不得手を知った方がいいかというと、得手を伸ばし、不得手を避け、時に捨てるためである。

実際私は、数学が地獄のように苦手だったため、数学は早々に捨てて授業中は心を手放した関口メンディのような顔でやりすごしていたが、その顔のまま席を立ち、両腕を回転させない限りは注意されなかったし、テストで20点を取ったとしても親に渋ヅラをされる程度だった。

同じように体育の時間、心を亜空間に移動させ、ただ筋肉組織を45分間痙攣させ続ける事でやりすごそうとした生徒もいただろう。

しかし体育に限っては「捨てる」という行為が許されない場合があった。それを許さないのが「体育教師」という存在だ。

「運動嫌い」という概念自体を知らなかった人達の危機感

他の授業であれば、目に見えてサボっていたり、他の生徒を妨害しない限りは、捨て置かれる場合が多いのだが、体育だって、例え棒高跳びが30センチも飛べなくても、おもむろに落ちた棒を拾って他生徒に殴りかからなければ放置すればいい。

しかし体育の場合「できない」、そしてなにより「できるよう努力しようとせず、ただ時間をやり過ごそうとする」という姿勢すら叱責される場合がある。

体育教師の中には、運動は出来不出来ではなく、やろうとすることが素晴らしく、参加することに意義がある、と思っている人もいるだろう。

それは逆に言えば「スポーツという素晴らしい行為にやる気を出せない奴が悪」ということであり、ヒャダインさんもコラムで、体育教師の「運動は素晴らしきもの」と信じて疑っていない精神がまず傲慢で嫌いだと指摘している。

しかし、このコラムが話題となったもうひとつの理由でもあるのだが、このコラムが掲載されたのは、読者の9割が「周回遅れ」を経験しているサブカルクソ雑誌というわけではなく、その名も「体育科教育」という、まさに体育教師に向けた専門雑誌なのだ。

この雑誌を読んでいる体育教師はおそらく教師の中でも意識が高く「どうやったら運動が苦手な生徒でも体育を楽しくできるか」を考えたいと思っているのだろうが、そもそも「体育を楽しめない子どもはかわいそう」と思っていること自体、スポーツ至上主義者の差別であり上から目線だと指摘しており、特に体育と教師をフォローすることなく、このコラムは「放っておいてくれ」の一言で締められている。

俺たちに和解はない、という結末だが、これが体育教師向けの雑誌に載ったのは革新的だ。

確かに体育教師になるレベルの元体育できたキッズが、できないキッズの心を理解しようとしても無理であり、理解しようとした頑張った結果が、体育と教師への憎悪というのはお互い不幸だ。

体育の時間、感情を失っている生徒の心を蘇生させようとして、逆にこの世ならざる者を生み出すこともある。

どうせ体育が苦手な奴は、大人になってそっちの道に進むこともない。変に構われることなくモブとして45分過ぎ去る以上の平和はないのだ。

逆に、このような名文を生み出したという意味で文化的には体育教育は無駄ではなかった感も出てしまっているが、誰もが憎悪をこういう形で昇華できるわけではない。

表現方法が国語や美術ではなく「暴力」という、存在しないはずの教科で出てしまう子どももいるので、やはり子供には暗い感情を抱かせない方がいい。

ちなみに、私は給食業務に携わる人向けの雑誌を読んだことがある。

どうやったら全ての子どもが給食を楽しむことができるか様々な知恵が絞られていたが、給食以前に食べるの嫌いキッズからすれば「食の楽しさを教える」という時点で上から目線であり、栄養液体でも飲ませるか、点滴の針でもブッ刺してあとは放っておいてくれ、ということなのかもしれない。