これを書いている時点ですでに年が明けて一週間が経とうとしているが、皆さんは今年年賀状を出しただろうか。
私が出していないのは当然として、うちに来た年賀状も見ていない。
私にも年賀状は来るがどうせ全て出版社からである。編集者というのは基本的に社会性がある人間がつく職業なので、小さい仕事を1回しただけでも年賀状を送ってきたりする。
それをフルシカトするまでが私の正月であり年賀状なので、夫もついに私の分の年賀状をご用意しなくなってきた。
年賀状の「強み」と焼き畑農業
私に友人知人が少ないのは、そもそも人と仲良くなれない、というのもあるがせっかくできた縁ですら大切にしないせいもある。
卒業したとたん学生時代の友人たちと疎遠になるのはよくある話だが、マメな人間はそれでも定期的に連絡を取ったり「久しぶりにみんなで集まろうぜ」など、縁が切れない努力をしているのだろう。
それに対して私のような人間は縁を大事にしないばかりか永遠にデビュー願望が消えないため、ことあるごとに人間関係をリセットして一からやり直したがるところがある。
だがこれは焼き畑農業と同じだ。友人というのは年を取るほど新しく作るのが難しくなるため、リセットするごとに土地が痩せ、最終的に不毛の地と化した人間関係が残るのだ。
年賀状というのは学校や職場、同房に収容されていたなど、直接的接点がなくなった相手との縁を途切れさせないアイテムとしてバカにできないものがある。
もし退職以来全くやりとりのなかった元職場の人からあけおめLINEが来たら、ネットワークビジネスか宗教の可能性を考えてしまうが「何年も会ってないが年賀状だけ送ってくる」というのはそこまで不自然ではないし、お互い送りあった時点で完結するので「このどうでも良いやりとりラリーをいつまで続ければいいのか」という点で悩む必要もない。
また年賀状には住所と氏名が明記されるのも強い。あいさつだけならLINEやSNSで十分だが、そこに住所氏名を書く奴と言うのはあまりいない。
親族が急死した時など、訃報を知らせたくても故人の人間関係が全くわからず、パソコンやスマホを見ても、SNSでローション親方さんやヤギ沼さんなど、明らかなHNか本名に見せかけてヤギに沼っているだけのHNの人とのやり取りしか残っていない場合がある。
そんなときに年賀状が残っていればかなり捗るのだ。エンディングノートが未だに紙が主流なように、終活界隈ではまだアナログが熱いのである。
最近は老も年賀状を出さなくなりつつあるようだが、若に比べるとまだ年賀状を出している老は多い。
年長者が出してくる以上自分も出さないわけにはいかないという立場の若もいるため、年賀状文化はしばらく滅びないだろう。
しかし、年賀状を用意し、本文と宛先を記載してポストに投函するという作業は正直面倒くさい。外に出る必要がある時点で正気を疑う面倒さだが、途中でプリンタのマゼンタだけ切れるというアクシデントも起こりがちだ。そんなことをしている暇などないという人も多いだろう。
年賀状アプリで詠み人知らず多発、デジタル化にはまだ課題あり?
そんな人のためにスマホから申し込むだけで年賀状の用意から作成、発送までやってくれるサービスがすでに存在しているのだが、それらのサービスが立て続けにトラブルを起こしてしまったそうだ。
まず年賀状アプリNo.1をうたう「スマホで年賀状」が、本来なら差出人の住所が入る部分に自社のアプリ広告を入れて発送してしまうというトラブルを起こした。
まだ本文に住所氏名が書かれているデザインなら良いが、そうでなければ受け取った側からすると「知らない業者から年賀状が来た」ということになってしまう。
本文がテンプレであれば、ただの商業年賀状としてスルーされる可能性もあるが、メッセージが書いてあったり、子供の写真が使われていたりしたら、謎の業者がやたらフレンドリーに今年もよろしくすることを求めてきたり、我が子を紹介してくるという怪現象になってしまい、新年早々不気味としか言いようがない。
そしてNo.1はハッタリではなかったようで、この不具合は「数十万件」にも及ぶとされている。
同社は被害者に料金を返金、さらに正しい年賀状を再送する旨を発表しているが、数十万件ともなればその被害額は甚大であり、イメージダウンも大きいので来年には「No.1」の文字が消えているかもしれない。
それに比べればMIXIが運営する「みてね年賀状」が「印刷機の故障」により24日で急遽受付を終了し、クオリティが保証できなくなったものは無料にしたというトラブルはまだかわいい方と言えなくもない。
まともに作ろうとすれば手間がかかり、手間をかけまいとすればトラブルに巻き込まれる。年賀状という制度自体なくした方が早いという声も多いだろうが、人の縁をつなぐ最後の砦として年賀状が有用であるという点も否めない。
年賀状に代わる、もっと手軽かつ安全な年に一度の現住所、現名字、生存のお知らせをする仕組みと習慣が必要である。
だが新習慣とシステムができたところで私のような焼畑農民はやらないだろうということも何となく予想がついている。