先日「人の意見ばかりRTしてないで自分の言葉で語ろうぜ」という引用リプライ推奨機能をつけてツイッタラーに微妙な顔をされたばかりのTwitter(ツイッター)だが、またも新しい機能を搭載して、今度は「こちらに向かって指さすヒラリー議員」みたいな顔をされている。
その機能とは、投稿してから24時間でつぶやきが自動的に消える「フリート」と呼ばれるものだ。
ツイッターでは初めて、だけど「前からある」新機能
あまりにも「あのインスタについてるやつね?」としか言いようがない機能だったため、ツイッターには「なんでだ ここはインスタグラムか?」と葉巻をくわえるコブラが大量に出現した。
しかし、「ツイッターくんは自分のことインスタだと勘違いしているよね」というツッコミに関しては、「むしろ俺たちがツイッターを自分の物と勘違いしている説」もある。
ツイッターからすると、今のツイッターは「代官山のマダムのワードローブ」と思って作った服に、西の方のヒョウ柄どころかヒョウ一匹を丸ごと衣服に取り込んでいらっしゃるようなパワフルな女性に「何やこれ!楽で安くてええわ!」と群がられてしまったような「想定外」であり、最近のアップデートは想定していたオシャレ層を呼び込もうとしているのではなく、我々「想定外」の奴らを必死でふるい落とそうとしている、ということではないかという説だ。
そうなると、「ツイッターは俺たちが求めてない機能ばかりつける」と言っている連中がまずツイッターに求められていないということであり、呼ばれてないのに「主役です」みたいな顔で居座ってすまないという気もする。
しかし領地というのは誰のために作られたものであろうと、占領されてしまえば占領者の物である。ツイッターの中で人口が多く影響力が強いのが、インスタやフェイスブックに居場所がない「俺たち」なら、ツイッターは俺たち側のツールであり、ツイッターがどれだけ「水に色とりどりの花を浮かべたやつを作りたい」と言っても、俺たちが「ここにダサい銅像建てよう」と言ったら抗えないのだ。
フリート機能を自分らしく楽しんだツイッター民
では今回の「インスタでみたことあるやつ」な「フリート」はツイッター民に不要なモノとして無視されたかというとそんなことはない。
むしろ「無視ができない」のがツイッター民の特徴であり、何が投げ込まれても無視はせず、とりあえず文句を言い、文句が尽きると今度は「大喜利」がはじまる。ネタとしての消費速度が速いため、これを書いている時点ではまだフリートの話題は散見されるが、掲載される頃にはどうなっているかわからない。
そもそも24時間で消える機能なんかつけなくても、ツイッター民は「ツイッターで話題だったものを24時間以内に忘れる」というセルフフリート機能を標準装備しているので不要だった気もする。
ともかくフリート機能が搭載された初日には、「自分のことをインスタと思ったツイッター」という童話のような状態を面白く表現するネタツイが多数みられ、当のフリート機能をいかに「ツイッターらしく使うか」に焦点を当てた投稿も多くされたそうだ。
実際担当編集から「ツイッターらしくフリートが使われた例」として、いくつかの投稿URLを教えてもらったのだが、なにせフリートそのものにURLはなく24時間で消えるため、全て「フリートのスクショを添付した普通のツイート」だったので、やはりこの機能はクソな気がしてきた。
仕方ないので自分でフリート機能を使ってみようとしたところ、確かにツイッターの上部に、何の説明もなくそれらしいバーが出現している。
ちなみにこのフリート機能が搭載されたのは、当初iPhoneだけであり、Androidに搭載の予定はあるものの、初日は未実装であった。それに対し、Android勢は「今日ほどAndroidを使い続けた自分を誇らしく思った日はない」というコメントを出しているとかいないとか。
しかし、このフリート機能はツイッター側も「インスタで見たことあるから説明せんでもわかるやろ」と思っているのか、大した説明もなく、最初どう使っていいのか全くわからなかった。
このことから、すぐに「インスタじゃん!」とツッコんだ者や、フリートを使って大喜利を始めた者に対しては「何故そんなにすぐ理解できるのか、さてはてめえインスタの者だな」という「リア充疑惑」がかけられていた。
もしかしたらツイッター社は、フリート機能により、ツイッターに潜むインスタくずれをあぶり出し、内乱を誘発させるのが目的だったのかもしれない。そうだとしたらなかなかの策士であり、「ツイッターくん」などと舐めていたら寝首をかかれる恐れもあるので慎重にいかなくてはならない。
なんでもネタにする貪欲さとその反作用
このように、フリート機能は「いらねえ」と言われながらも、無視ができないツイッター民により、漫画の名シーンを無理やり絵文字だけで再現する遊びなど、「俺たち」らしいやり方でそれなりに遊ばれてはいるようである。
この「なんでもネタにする」というのは、ツイッターの良いところであり、悪いところでもある。
今の世の中、「打つ手なし」なことが非常に多いが、逆に言うとそれらは「神妙なツラをしていれば解決するわけでもない」ということだ。ならば、そんな状況すら笑いに変えてしまったほうがまだマシなのではないか、ということである。
その一方で、そういう事柄をネタとして大喜利に持ち込む人間を「不謹慎だ」と言って糾弾するのもツイッター民という共食い状態ではあるのだが、嘘でも明るくしようという姿勢は大事である。
しかし、この大喜利文化は時に真剣な話題を「茶化す」ことにもなってしまっている。本来なら長い時間をかけてじっくり話し合うべき話題すら、大喜利化されたことにより、ネタとして24時間以内にフリートのごとく消化されてしまったりするのだ。
そうなってしまったら再度議論しようとしても「まだそんな古い話してるの?」と「終わったこと」扱いされてしまうのである。これは当事者にとってはたまらないことだ。
大喜利はツイッターを代表する文化であり、面白いものもたくさんある。しかし乗る前に、それが大喜利にしていい話題かどうかは確認すべきだろう。