今回のノーベル賞、日本人はノーベル医学生理学賞を本庶佑氏(と米国のジェームズ・アリソン氏の二氏)が受賞した。
ノーベル賞と言えば、「奥さんはこんな人で、こんな内助の功があったのです」という報道の仕方が、成人式で暴れる新成人の次にうんざりされていると思う。
もちろん内助の功が悪いわけではない。才能グラフが偏り過ぎていて、一般社会に放ったら野垂れ死ぬ人間(※個人の感想)を社会性のある者が支え、大きな成果を上げさせるというのは、パートナーシップとしてこれ以上の姿はない。
だが、一番にいう事じゃないだろう、という話なのだ。
本庶氏は一体何故ノーベル賞を取ったのか、その功績はどんなものなのか。その功績を有用なものにするために、今後どうしたら良いか、という内容の方が重要である。
しかし、ノーベル賞受賞者が挙げた功績の中には難解なものも多い。説明されてもそれがどうすごいのかさえわからず、「それより奥さんはどんな人?」と言い出したくなることがあるのも事実だ。
その点、今回の本庶氏の功績はわかりやすいかどうかは別として、我々一般人の関心を大きく引くものである。本庶氏の受賞理由は、「免疫を抑える働きを阻害することで、がんを治療する方法の発見」だ。
「がんの特効薬」報道への懸念
日本人の死因第一位は「がん」である。昔に比べ治療法が進化しているとはいえ、未だに「不治の病」であり、痛みが強く、それを治療する過程がまた苦痛というイメージがある。
「自分ががんになったらどうするか」。日本人なら一度は考えたことがあるのではないだろうか。私も罹っていない今なら「苦しいのは嫌だから痛みを減らして潔く死にたい」などと同人誌の女騎士みたいなことを言えるが、今までの人生、潔かったことなど一度もないのだから、実際罹ったらあらゆる治療法にすがってしまうかもしれない。
だが、治療はもちろん、「痛みを減らして潔く死ぬ」ことにも、多額の費用がかかるのではないか。がんによって起こる苦痛は肉体的なものだけではなく、金銭的にも大きいのだ。患者だけではなく家族にも大きな負担である。
つまり「がん」というのは、日本人すべてにとって脅威なのである。
それに対し、画期的治療法を見つけたと言われたら、その内容はわからなくてもとりあえず「でかした!」と膝を叩いて立ち上がってしまうだろう。
実は本庶氏らが発見したがん治療法は、すでにがん治療の現場で使われている。「オプジーボ」という「免疫チェックポイント阻害薬」を投与することにより、免疫にかけられたブレーキが解除され、がん細胞を攻撃できるようになるそうだ。
これらは「がん免疫療法」と言われ、従来の直接がんを攻撃する治療法と違い、元々人間の体にある免疫の力を利用してがんを攻撃する。実際効果を発揮した例もあり、今後がん治療の主力となることを期待されている治療法なのである。
つまり、「がんの特効薬」が開発されたわけではないため、がんに怯える一日本人としてテンションダウンは否めない。外国人4コマの4コマ目から2コマ目に逆戻りだ。逆に言えば、がん特効薬の実現に一歩近づいたとも言える。
しかし、今回の本庶氏ノーベル賞受賞のニュースの中には、あたかもがんを治す夢の薬が開発されたかのような報道もあるようだ。確かに、「今後がんを完治できるかもしれない治療法の第一歩的なものを踏み出した功績」と言われるより、「がんを治す薬を開発した」と言われた方が、「マ!?」と食いついてしまうのが人情である。
そして、食いついてしまう人というのは、今まさにがん治療をしている人だったりするのだ。実際、ノーベル賞報道以降、「あの治療法はできないだろうか」という問い合わせが増えているそうだ。
ただ、この免疫療法はすべてのがんに効くわけではなく、またすべての人が試せる治療法でもないという。
そういう人を、「新しいものに飛びつこうとする情弱」と言うことはできない。私のように「生きのびてどうすんの?」と聞かれて「わからん」と答える人間でさえ、がんに罹ったら、わらにもすがってしまうだろう。それが明らかに風呂に良く浮いている陰毛であってもだ。残して死ねない子どもなどがいたらなおさらだろう。
問題は、このノーベル賞受賞に乗じて、そういった「わらにもすがる思い」の人間を食い物にする者が現れるのでは、ということである。「あのノーベル賞を取った治療法」と謳って、保険適用外の高額かつ効果も定かではない自由診療を行うクリニックが増えることが懸念されている。
このたび本庶氏があげた功績が大きなものであることは確かだが、「ガンが治って身長が伸びモテるようになった」と札束風呂でダブルピースしているような、持ちあげすぎ報道には専門家も苦言を呈している。
誤った報道をするぐらいなら、「奥さんはこんな人で内助の功がすげえ」、という話を延々としているほうが、まだ平和なのかもしれない。