「旅は、財布とスマホ、あと指毛さえ剃っていればなんとかなる」
これは「東方見聞録」を口述した偉大な冒険家マルコ・ポーロが残した言葉、ではなく俺がいつも言っていることだ。
旅やこれから人に会うという道中で「指毛を剃り忘れていることに気付く」というのは、「ガスの元栓を閉めたか定かでない」と同じぐらいの事案であり、瞬時に「引き返す」「抜く」「コンビニで剃刀を買って剃る」など最低3つは対策案が浮かぶ。
もはや、毛の剃り残しを見つけた時が一番キレ者になっている、と言っても過言ではない。私だけではなく、無駄毛が生えたままでで外や人前に出てしまい、気が気じゃない思いをしたことがあるという日本人は多いのではないかと思う。
一方、海を隔てた向こう側、米国の女は日本の女ほど無駄毛を気にしておらず、日本にいる時より気が楽、という記事が一時期話題になっていたようだ。たまたま直近がこの記事だっただけで、「無駄毛の話」は、毛が無い話と同じくらいネット論争のテーマとしてわりとポピュラーである。
そもそも、指毛の剃り忘れで感じる「心もとなさ」の正体は一体何なのだろう。
無駄毛への恐怖、その正体は「常識」?
剃り残した指毛に次から次へと小バエが絡んできたり、気温30度以上で発火したりするというなら、ガスの元栓と同様、安全性の問題で引き返して剃ってきた方が良いだろう。
しかし実際は、指毛、腕毛、すね毛、腋毛が生えていて物理的に困ることなどほとんどないのである、つまりほぼ100%ビジュアル的な問題だ。それも己の美意識が毛を許さない、というのもあるかもしれないが、「他人にそれを見られたら恥ずかしいから」という動機の人も多いのではないだろうか。
実際、日本では女は無駄毛を処理するのが「常識」であり、スネ毛や腕毛はもちろん口ヒゲなんか生えている女は、枢斬暗屯子様でもなければ「女としてありえない」と言われてしまうのが実情である。
それに対し欧米などではムダ毛の処理が日本ほど徹底されておらず、真の意味でナチュラルスタイルな女も多いそうだが、それは文化の違い、と言ってしまえばそこまでである。ただ、欧米では脇毛ボーボーだけでなく、屁で空を飛ぶなど、どれだけ破天荒なことをしても「女としてありえない」というような言われ方をすることはあまりないようだ。
つまり日本は諸外国に比べて「女とはこうあるべき」という女に対する役割意識と、「さもなくば愛されない」という「愛され圧力」が強すぎるのではないか、ということである。
それ故に、日本の女は無意識のうちに、自分がどうしたいかより「他人にどう思われるか」を重視して動かざるを得なくなっている、と言われている。
指毛一本から随分深い話になってしまったが、確かに日本は女、特に若い女への周囲の注目度が高く、目立てば叩かれ、隙を見せればワンチャン狙われたりしてしまうため、なかなか「これが私のスタイル」と、鉄下駄の鼻緒から覗く足の甲毛がアクセントみたいなファッションをするわけにはいかず、周りが納得するような「女としてありえる姿」をするしかないという現実がある。
よって、日本には若さを失うのを過剰に怖がる女がいる一方で、逆に「BBAになってから本当に楽になった!」と、鉄下駄を颯爽と履きこなし、推しのコンサートやフィギュアスケートを見に行く中高年女も非常に多いのである。
それはそれで良い事だが、せっかくの若い期間を「他人の視線を気にして自分のしたいことを我慢する時期」として過ごさなければいけない国、というのもあまり誇れたことではない。
ツルツルVSボーボーは無益、考えたいのは「個人の自由」
しかし、誰が何と言おうと好きな格好をすればいい、というわけではないのも確かなのだ。
人間として毛が生えるのは当たり前なのだから指毛がボボボーボ・ボーボボで何が悪い、という主張を突き詰めると、「人間生まれた時は皆全裸がデフォルトなのだから、裸で外にでて何が悪い」という話になってしまうからだ。 ファッションは自由であっても、人としての「身だしなみ」はまた別の問題なのである。
実は私も、数年前、自宅を建てる時、インテリアコーディネーターの女性の指毛がかなりボーボボ(CV:子安武人)であるのを見た瞬間、「この人にインテリアを任せて大丈夫だろうか?」と思ってしまったことがある。
もちろん指毛とインテリアセンス、仕事の確かさは関係ない。頭でわかっていても、「女性は生えていないのが普通」という世界観で生きていると反射的にそう思ってしまうのだ。
逆に言えば指毛を剃っておくだけで、客に入らぬ疑念を抱かせずに済むとも言える。風呂に入って洗濯をした服を着ているだけで、大体の場所で普通に接してもらえるのと同じだ。
社会生活でいらぬトラブルを起こさぬためにできる一番簡単な努力が「身だしなみ」である。その安い努力すらできないのは社会人としてどうか、と言われたら、反論し辛いものがある。
現在の日本で、良い悪いは別として毛の処理が「身だしなみ」の中に入ってしまっているのなら、生やしっぱなしでも良いではないか、と言い切れないところが悩ましい。
よって、毛でガタガタ言われたくなかったら、女性の毛の有無を「身だしなみ」ではなく「髪型」レベルの「個人の自由」という文化になるよう、徐々に変えていくしかない。
しかし、ボーボースタイルをスタンダードにするために、ツルツルスタイルを「男に媚びた女の自由を奪う悪」と迫害しては同じことである。
良い文化というのは、毛の有無が良い悪いなど枝葉の話ではなく、この「個人の自由の範囲」が広い文化のことだろう。