1970年代に入ると、画期的な旅客機が誕生する。ボーイング747-100、すなわちジャンボジェット機である。
1965年、航空機メーカーのボーイング社はそれまで最大200に満たなかった座席数を、一気に500まで増やす旅客機の採用を日本航空に打診する。購入価格は当時の金額で1機61億円。今の最新鋭旅客機と比べると、5倍ほどもする高額な旅客機だった。
パン・アメリカン航空の発注が契機
当初、社内では慎重に購入検討を進めていたが、ライバルのパン・アメリカン航空が発注すると、日本航空も発注を決断。当時は高度経済成長期であり、また、1964年に海外旅行が自由化されたことで、旅客数が大幅に増え続ける市場環境も購入を後押しする要因となった。
そして1970年7月、日本航空のジャンボは太平洋線に就航した。ジャンボは世界初の2階建て旅客機であり、また、世界初のワイドボディ機でもあった。それまでは客室の通路が一本のナロウボディ機しかなかったが、客室の横幅が大きく広がったことで横に10前後の座席を設置できるようになり、通路を2本にする必要が生じたわけである。
ダグラスDC-8-61。巡航速度876km/h、航続距離5000km、座席195席(国際線)、234席(国内線)。1970年1月15日に日本航空が受領したDC-8-61「HAKUSAN」から機体のカラーリングが一新され、白地の垂直尾翼に大きな鶴丸が描かれた。このカラーリングは以後20年に渡って使用された |
ジャンボ機が就航する前年の1969年4月には、DC-8-61型機を東南アジア線に導入。この機材は日本航空のジェット一番機であるDC-8-30に比べると、胴体が11メートルも長くなっている。また、就航当初は世界最大の旅客機であり、国際線仕様で195席、国内線仕様では234席を設置。ジャンボとともに、大量輸送時代を象徴する旅客機となっていった。
なお、ダグラス社がジャンボに対抗すべく開発したDC-10、通称ディーテンを日本航空もDC-8の後継機として採用。国際線、国内線で2005年の退役まで活躍した。
航空旅行をより身近にしたジャンボ機
747SP-100は日本国内線専用に開発された機材で、日本航空がローンチカスタマーとなり、長年にわたり乗客数世界一を誇った東京(羽田)~札幌や福岡、大阪などの国内幹線で活躍。その後、ジャンボには747-200(ダッシュ200)、ダッシュ300、さらにハイテク機となったダッシュ400など複数の派生型機が生まれ、日本航空では747-400が2011年3月1日に退役するまで、40年以上に渡って活躍することとなった。
ジャンボはさらに、日本の観光化時代の礎を築いた旅客機でもあった。座席数が多いため航空運賃を引き下げて販売できる余裕が生まれ、リーズナブルなパッケージツアーや航空券が広く流通するようになったのだ。オイルショックも低価格化に拍車をかけ、より多くの人がより安価な海外旅行を楽しめるようになる。一方で航空会社間の顧客獲得競争は次第に激しくなっていく。 パン・アメリカン航空などのライバルに対抗するために、日本航空がこだわったのが機内のインテリア。この“空飛ぶ豪華客船”の内装を担当したのは、世界を代表するインテリアデザイナーの剣持勇氏だった。その華やかなインテリアについては次回詳しくお話ししよう。