スイカに塩をかけると甘くなる。そのメカニズムや化学反応を云々したいわけではない。ときにしょっぱいはずの塩が甘さを引き出す現実が、この地球上には存在するということだ。
同じように日本語、いや日本の文化には、このスイカにかける塩のような、実に使い勝手がいいというか、万能の調味料ともいうべき言葉、精神がある。それは「小」である。この場合、「しょう」と読むのではない。送り仮名を省いて「ちい」でもない。「こ」である。
たとえば、クラスでも職場にもうるさいヤツはいる。だが、「お前ホント、うるせえな」と罵声を浴びせられる対象の騒音は、案外、許容の範囲内であることが多いものだ。ところがこれに「小」がつくとどうなるか? できれば二度と会いたくないと思うのは、うるさい人間だろうか? それともよ小うるさい人間だろうか? 同様にボクが付き合いたくないのは、汚いヤツより小汚いヤツである。
「小」の効用は、なにもネガティブな言葉だけに通用するものではない。綺麗な美人は3日で飽きるだろうが、小奇麗な人は一生、飽きないような気がする。もちろん気がするだけだけど……。
気味が悪いとはいうが、リズムやテンポやノリの良さは気味がいいのではなく、「小気味がいい」のである。「賢い」がネガティブかポジティブな言葉かは曖昧だが、賢いが「小賢しい」となると、計算高い根性の悪そうなニュアンスが醸しだされる。いわゆる悪賢さ、だ。正攻法に対してゲリラ戦法。歴史は往々にして、小賢しい策略家が創ってきたのである。
とまれ「小」には目に見えるものだけでなく、その背後に潜む精神性というか、核をなす本質に目を向けさせる、もしくはあぶり出す効果がある。スイカの本質的な甘さを引き出す塩のような存在、とボクがいう理由がそこにある。
「美」いう漢字は、もともと羊と大を組み合わせたもので、すなわちそれが象形文字である漢字を考案した大陸の思想であり、美意識である。一方、この国の美意識とは、ひと言で表現するなら「やせ我慢」である。武士は食わねど高楊枝、というヤツだ。好きだ、好きだを連呼する軟弱よりも、好きとは言えぬ男の背中、「いよっ健さん!」の世界である。
このやせ我慢こそ、実は「小」の正体ではないだろうか? ここでも粋ではない、小粋というヤツだ。カネと名誉と異性は、「追えば追うほど逃げていく」はボクの持論だが、往々にして失敗するのはそこにやせ我慢の精神がないからだろう。欲しい、欲しいだけの大欲は、ここでも欲しそうな素振りもみせない小欲に劣るのだ。
モテたいのであれば「小」を極めよう。ときに「小」は、「大」よりも大きなインパクトと印象を恋愛対象に与えるだろう。
もっとも大欲を前面にさらけ出した肉食系が流行する昨今、「小」なる美学が通用するかどうかはわからない。女性の脚を揃えた姿が美しいのは、やせ我慢しているからである。ところが昨今は電車の中でも大股開きで、中には化粧までする強者もいる。
「そんな連中にモテなくても別にいいもん」……美しさを求めるなら、ここでもやせ我慢である。ただしそんな女たちにアタックできない者を、世の中は小心者、もしくは小物、小市民と呼ぶのだろうが……。
本文: 大羽賢二
イラスト: 田渕正敏