我々の生活に密着していながらも完全に解明されていないのが、食事中の「おいしさ」だ。一見すると舌体上の味蕾(みらい)で感じるものと思われるが、冷凍食品大手のニチレイ 技術戦略企画部 基盤技術グループ アシスタントリーダー 畠山潤氏は「『おいしさ』は味覚・聴覚・視覚・触覚・嗅覚(きゅうかく)で構成されるが、特に嗅覚が重要」と話す。その嗅覚を科学的に可視化する分析機器、「MS Nose(エムエスノーズ)」を通じて、ニチレイは新規事業の創出を目指している。
「おいしさ」の認識には香りが重要
我々は牛肉・豚肉・鶏肉の味の違いを認識しているはずだが、畠山氏は「視覚や嗅覚を抑制した状態で口に含んでも、その違いは分からない」と説明する。とある畜産分野で著名な研究者の報告によれば、通常の形態でも鶏肉以外は正解率が低く、ひき肉にしてしまえばすべての肉で正解率が降下。さらにスープ状ではすべての正解率が30%を切るという。人間は香りを含めた感覚を味として認識しているからこそ、嗅覚が重要な要素を占める。よく「風邪を引くと味が分からない」というが、この現象も同じ理由があるのだろう。
既存技術でも食品内の味や香りの成分そのものを分析することは可能だが、人が認識する感覚レベルの測定は難しかった。特に嗅覚による認識は、口内で食品をかみ砕き唾液(だえき)と混ざった後、揮発した空気が喉から鼻に抜ける際に初めて成り立つ。これはレトロネーザルアロマ(口中香)と呼ばれるものだが、読者諸氏も食事風景を思い返せばお分かりのとおり、温度変化や咀嚼(そしゃく)過程でレトロネーザルアロマは刻一刻と変化するため、定量化するのが不可能だった。
入社当初はチキンブイヨンの開発に携わり、香りの分析に従事していた畠山氏は、「既存技術による分析手法ではプロの料理人レベルの味に近づけない」という課題を抱えていた。その時に出会ったのが、英国ノッティンガム大学 食品科学科 フレーバーテクノロジー部門の名誉教授を務めるAndy Taylor氏である。2006年に「MS Nose」の発明者であるTaylor氏の論文を読み、タイミングよく訪日したTaylor氏に協力を仰いだ。Taylor氏はノッティンガム大学とのスピンアウト企業であるFlavometrixを設立し、レトロネーザルアロマの受託分析を事業として行っていた。2009年にはニチレイフーズとFlavometrixの間で研究パートナー契約が結ばれる。
レトロネーザルアロマを可視化する「MS Nose」
当時、MS Noseの装置はノッティンガム大学にしか存在していなかったため、畠山氏は2010年から約1年間、2011年の途中にも3カ月間、同大学へ出向くことになる。畠山氏はTaylor氏に「深い部分まで研究し、自分で分析したい」と伝え、MS Noseを借用する契約を取り付けた。当時のニチレイでは海外企業と共に研究開発するケースはまれだったが、「(畠山氏が在籍していたニチレイフーズには)協力的な上司がいて、研究開発部長を説得したら、次は社長、次は持ち株会社のニチレイ役員と話が進んだ。MS Noseの将来性をアピールするといった周りのサポートを受け、実現に至った」(畠山氏)と、スムーズに研究をスタートさせることができた。
研究方法を学んだ後、ニチレイの研究技術として取り込むか考えあぐねていた畠山氏だが、2012年ごろ、Taylor氏と英国マンチェスターにある企業との間で次世代型MS Noseの開発話が浮かび上がる。畠山氏は再びニチレイフーズの研究開発部長や社長の下に出向き、ニチレイは次世代機開発に参加することになった。しかし、当初開発された試作機では意図したとおりに動作しなかったという。「本来のMS Noseは水溶性の成分を分析する機械。そのためメーカーは香り分析に対応させる拡張を試みたが、うまくいかなかった」(畠山氏)。加えてTaylor氏と開発企業間のプロジェクトは頓挫し、英国企業側を頼ることが難しくなってしまった。ニチレイは、国内の小規模工場などをあたって独自拡張を行うことになり、MS Noseが国内で稼働するまでには、2012年12月導入から数えて3年後の2015年12月までかかってしまった。
本格的に稼働可能になったMS Noseだが、ここに至るまで8年の月日が過ぎさってしまっている。2014年にニチレイフーズからニチレイへ移籍した畠山氏の元に、役員から「本プロジェクトは終わり」との声がかかり、畠山氏も品質保証部へ異動することとなる。それでも、冷凍倉庫内の分析センターで輸入した冷凍果汁の品質分析に従事する傍らで、畠山氏は空き時間を利用しながらMS Noseの研究開発に取り組んでいたという。畠山氏は「受託分析を請け負っていたが、私以外は数名の派遣社員しかおらず、手が回らなかった。それでも(MS Noseに関する)メディア取材などを通じて社内認知度が高まり、会社側もサポートスタッフを割り当ててくれた」と当時を振り返る。
MS Noseの実用化に取り組んだ技術者の思い
2018年5月に現在の部署に戻った畠山氏だが、MS Noseの導入・稼働へモチベーションを維持できた背景には、ニチレイが持つ企業文化が大きく影響している。「食品メーカーの根幹をなす『おいしさの定量化』に興味があった。(8年間の月日で)私なりの進捗があり、(畠山氏が所属する)技術戦略企画部は『10年後のニチレイに役立つ』研究を行っており、短期的な成果を求められていない」(畠山氏)。さらに「両親は札幌で理髪店を営んでいる。そのため『技術でお金をいただく』という姿勢に共感し、技術や知見で立脚する研究者を目指していた。入社時も『自分独自の技術を身に付けたい』という目標を持ったが、振り返るとMS Noseを通じて独自技術を蓄積できた感がある」(畠山氏)と振り返った。
ニチレイは「これまで弊社はおいしさとコストパフォーマンスの両立を実現してきたが、他方で食べる・作る楽しみは提供し切れていない。たとえば3Dフードプリンターで食品を作り出し、ロボティクスによる食品提供時は、従来と異なる調理方法や食材の組み合わせが求められる。その際は口内の変化を反映させた新しいレシピが必要になるが、そのデータベースは存在しない」(畠山氏)と、今後わき上がるであろう課題を提唱し、MS Noseを通じて既存事業の拡大および新規事業創出への取り組みを目指している。その一例が食のレコメンドサービス「conomeal(このみる)」。食の好みをデータベース化し、ユーザーの好みと気分を独自のアルゴリズムで掛け合わせたレシピを提案するアプリケーションを2020年にローンチする予定だ。
冷凍食品で著名なニチレイだが、低温物流や不動産、バイオサイエンスといった事業を展開していることはあまり知られていない。同社は第2次世界大戦中の1942年に当時の政府が設立した帝国水産統制株式会社を前身とし、終戦後は1945年12月に民間企業の日本冷蔵として、戦後の食糧危機を解決するために冷凍技術の研究・開発を続けてきた。1985年2月に社名を現在のニチレイに変更。2017年4月からは社内に「事業開発グループ」を設立し、新規事業創出を目指している。その基盤となるMS Noseが1人の技術者を通じて世に送り出されたことを我々は認識すべきだろう。
阿久津良和(Cactus)